戦国武将・十文字槍「人間無骨」の鬼武蔵【森長可】
森可成の二男として永禄元年(1558)に誕生。
元亀元年(1570)に父の可成が討死。十三歳で家督を継いだ。信長から長の字を与えられ、父の可成の後釜に美濃金山城主となり、信長の家臣に列した。
東美濃で信長の嫡子信忠の与力となる。
天正十年(1582)の甲州征伐では先鋒を務めて活躍し、鬼武蔵の異名をとり、甲州制圧の恩賞に信濃川中島二十万石を与えられた。旧領の美濃金山城は弟の森蘭丸に与えられる。
本能寺の変で、主君の信長と蘭丸らが横死。そのとき柴田勝家の援軍のため長可は越後の上杉景勝と戦っていた。信長の死を知った信濃の国人衆が裏切り、一揆も勃発し長可は窮地に陥るが旧領へ撤退した。
清洲会議で秀吉が実権を握ると、池田恒興とともに秀吉に臣従を決めた。
天正十二年(1584)に家康と織田信雄との小牧・長久手の戦いで奇襲を受け狙撃されて討死にした、享年二十七歳。
鬼武蔵の異名を取り愛用の十文字槍「人間無骨」を振りまわす猛将だったが、武家に対して否定的な意見を持っていた。
遺言には、長可は残された末の弟に家督を継がせないよう懇願して、娘は武家ではなく京の町人へと嫁がせてほしいと記した。
家族を討死にで失い続け末弟には戦で死んでほしくない。また娘を政略結婚の道具とする時代に、自分の娘には戦と無縁の幸せな家庭を送ってほしいという願いがみえる。
十三歳で家督を継ぎ戦乱の世で父、兄、そして三人の弟が亡くなり自分も討死。
しかし遺言に反して、家督を継ぐことになった末弟の森忠政は秀吉、家康と勝ち馬に乗り続けて、討死が続いていた家系で戦国を生き抜いた。
忠政は関ヶ原の戦いに参戦する。信濃上田城で真田父子に見事に足止めされ大遅参して家康に激怒された秀忠に従軍していた。
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