戦国武将・秀吉に天下を取らせた天才軍師【黒田官兵衛】

姫路城代の出身で姫路城で誕生。赤松家の陪臣の家系で、赤松家の重臣である小寺家の家老だった。

秀吉の中国遠征で秀吉に仕えた。姫路城を秀吉に譲って、官兵衛は参謀の一人として軍団長となった秀吉の戦略を担当した。

荒木村重の謀反では使者として村重の居城の有岡城へ入城して幽閉されてしまう。

戻って来ない官兵衛も謀反に加担していると誤解され、人質であった子の黒田長政を殺されそうになったが、盟友の竹中半兵衛の機転で救われた。

官兵衛の帰還の前に半兵衛は若くして病死してしまっていたが、半兵衛へ深く感謝している。

播磨をドライブすると、秀吉や官兵衛、半兵衛ゆかりの場所が跡地として残されている。

オフの度に、旅行やトレッキング、ドライブをしているけど歴史を学ぶことで、目前の光景だけでなく、目に見えない遥か昔の出来事や生活とリンクして想像力が掻き立てられる。

秀吉の軍師の半兵衛が遠征中に病死し、その軍師のポジションに官兵衛がおさまり、秀吉の天下統一を成し遂げることに成功する。

天正十年(1582)に本能寺の変で信長が光秀に討たれると、秀吉にいち早く光秀を討ち天下を取ることを提案し、毛利との講和を決めて中国大返しとなった。

秀吉にとっても、他の織田方の軍団長にとっても、信長が討たれた報せを聞いて、驚きで事実を受け止められず、動けないもしくは茫然となるに違いない状況。

官兵衛はその報告に、天下取りのチャンスと方針を瞬時に変えて光秀狩りに秀吉を動かした。

官兵衛の進言どおりに秀吉が他の重臣らよりも先んじてアクションを起こしたことで、秀吉は信長の後継者となり天下を取ることになった。

官兵衛は軍師となり時間も経たないうちに、偶然に秀吉の天下取り事業が始まった。

大規模な堤防を築いて、川の水で城を沈める前代未聞の戦術を実現させた備中高松城の水攻めで、鮮烈なデビュー。

信長の死で家臣が驚きで固まるような状況で、秀吉を促し動かした。

秀吉が天下取りの後に、官兵衛を危険視したようだが、このときの記憶が鮮明に残っていたのではないか。

信長のもとで功績を上げることに専念し、天下を狙う野心を抱いてなかった秀吉自身を、ワンチャンで天下人にさせる鬼才には、恐怖を抱いて当然。

官兵衛は天正十一年(1583)に普請奉行(国土交通大臣)を任命され、大坂城築城を担当する。

天正十三年(1585)の中国平定では官兵衛は長宗我部元親の作戦を見抜き、元親は手を打てず知略に負けたことを認めて講和を受け入れた。

九州平定や小田原征伐でも官兵衛は活躍。九州平定の功績で豊前に十二万石を拝領する。官兵衛の一連の功績からすればこの拝領は少ない印象。

豊前で官兵衛は中津城を築城する。中津に姫路、京都、博多から商人を招いて、中津の都市開発に着手した。姫路町、京町、博多町と令和の現在でも地名が残っている。

西国が平定され都市開発が進むと、官兵衛は讃岐で高松城、安芸で広島城の設計を担当した。

天正十七年(1589)に官兵衛は家督を黒田長政へ譲り、出家して如水の号を名乗る。

如水として従軍した小田原征伐では交渉人として北条氏を説得して無血開城させる偉業を成し遂げた。

天正二十年(1592)の朝鮮出兵である文禄の役、慶長の役では築城総奉行として朝鮮出兵の拠点となる名護屋城の設計を担当した。

主君秀吉の死後、慶長五年(1600)に関ヶ原の戦いが始まると、自腹で浪人九千人を雇い九州で西軍についた大名を次々と撃破し短期間で九州の大半を制圧する。

関ヶ原の戦いが一日で決着がつくと家康にストップをかけられた。家康に服従することを誓って、軍事は終了した。

九州制圧のスピードをみると関ヶ原の戦いが長期化していれば如水が天下を取れたのではないかといわれる。

息子の長政が家康から筑前五十二万石の大大名に抜擢されたため、如水も福岡へと移住する。

八度目の最後の築城で福岡城に着手した。福岡城の完成の前に五十九歳で死去。

黒田官兵衛(如水)は、加藤清正、藤堂高虎とともに三大築城名手とよばれるようになる。

官兵衛の築城の特徴は、河口や湾岸部を好んで縄張りをして水堀を利用して平城の弱点をカバーしていた。広島城、高松城、中津城などがある。

また大坂城と福岡城の縄張りでは城を経済の中心に発展させるよう、城と城下町を一体化した巨大な城郭を築城している。

一夫多妻の時代において正妻の光姫一人を愛し、側室を設けなかった。キリシタンに改宗している。

官兵衛の名言
「我、人に媚びす富貴を望まず」
「最後の勝ちを得るにはどうしたらいいかを考えよ」

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