戦国武将・秀吉の天下統一を補佐した優秀な弟【豊臣秀長】
秀吉に唯一意見ができる調整役として豊臣政権に欠かせない貴重な人物となる。
最終的には大和、紀伊、和泉、百十万石の大名となり従二位権大納言に栄進し大和大納言と尊称された。
天正元年(1573)に、秀吉が浅井氏を滅ぼした功によって長浜城主となると、城代に任されるようになる。
新興勢力の秀吉は人材不足で縁者の秀長が人材登用に注力していくことになる。
天正三年(1575)には秀吉が羽柴姓を名乗ると、秀長も羽柴の名字を与えられている。この時期に秀長は右腕となる藤堂高虎を採用している。
秀吉が中国攻めの司令官に就くと、秀長は軍団長として山陰や但馬の攻略の指揮を任された。
秀吉が官兵衛宛に書いた手紙に秀長こと小一郎の名をあげられ、秀吉陣営の重要人物と成長していた。
秀長は竹田城を拠点として但馬攻略を成功させ但馬、播磨に十万石を与えられた。秀吉とともに鳥取城攻め、備中高松城攻めへと参戦した。
本能寺の変の後、中国大返しに従って山崎の戦いに参戦すると、官兵衛とともに天王山の守備にあたっている。
天正十一年(1583)には姫路城の城主となっている。
天正十三年(1585)に紀伊征伐に秀吉の副将として従軍する。紀州制圧後に紀伊、和泉六十四万石を与えられると、普請奉行に藤堂高虎が任命されて、和歌山城が築城される。
四国攻めでは、秀吉の代理として十万の軍勢を率いる総大将として出陣している。
四国で長宗我部盛親を降すと、秀長は大和も加増されて百万石の大名となった。
領国の紀伊、大和、河内は寺社勢力が強く治めにくい地域と見られていいたが、よくまとめた。
天正十五年(1587)の九州平定では軍団長として出陣し、その功をもって従二位権大納言に叙任されている。
九州平定の後から病気で、その後の小田原征伐には参加できず、天正十九年(1592)に病死した、享年52。
秀吉の偉業達成に貢献し、諸大名から秀吉へのとりなしを依頼され、よく面倒を見ていたといわれる。
秀長亡き後に、秀吉の恐怖政治とも考えられる過激な政治が行われる。
さらに秀吉が亡くなると、豊臣政権は武断派と文治派で内部分裂して豊臣家の天下は一代で、徳川家へと主権が移っていることを考えると秀長の存在の大きさがイメージできる。