戦国武将・後継者秀次の筆頭家老から土佐藩祖へ【山内一豊】
信長が上洛した頃に信長に仕えているといわれる。最初の登場は朝倉義景を追討した刀根坂の戦い。
朝倉軍の殿をつとめた強弓の猛将の三段崎勘右衛門を追撃し、矢が顔面に刺ささりながら討ち取る死闘を繰り広げた。
一豊が信長へ仕官した頃の馬揃えの逸話がある。一豊が馬を買えずに嘆いていたところ、一豊の正室の千代(後の見性院)が隠し持っていた持参金で良馬を買いなさいと手渡し、馬を購入して馬揃えに参加。信長に目をかけられ一千石を与えられ出世していく。千代の内助の功に焦点を当てられた。
信長の馬揃えは天正九年(1981)で、仕官した頃ではなく、既に秀吉の元で出世し始めていた。江戸時代に脚色された創作。
四国平定後に羽柴秀次が大幅に加増され、田中吉政、堀尾吉晴、中村一氏らとともに秀次の宿老に任命された。秀次が近江に入ると一豊は長浜城主に任命されている。
天正十八年(1590)に小田原征伐に参戦。秀次は尾張伊勢で加増されると、一氏ら宿老も転封し、一氏は遠江掛川城五万石を与えられた。
しかし晩年に秀吉に嫡子の秀頼が生まれると、後継者の秀次への風当たりは厳しくなる。文禄四年(1595)には秀次は謀反の疑いで処刑。
信長の死後、関ヶ原の戦いでは東軍についた。小山評定と呼ばれる軍議で、一豊は石田三成を討つために掛川城と兵糧の全てを差し出すと申し出た。この発言で豊臣家譜代の大名達は家康への支持を表明、東軍の結束を固めることになった。
小山評定での一豊の発言は評価されて、関ヶ原の戦後は土佐二十万石の大名に任命された。
土佐では、長宗我部の浪人衆が強く抵抗し、一豊は武力鎮圧し、上士と下士の身分差別につながる。
土佐で有名な人物として、戦国時代の長宗我部元親、関ヶ原後に江戸時代に突入すると藩祖の山内一豊夫妻、幕末に山内容堂、坂本龍馬、板垣退助、三菱財閥の祖である岩崎弥太郎らの名が上がる。
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