戦国武将・日本三名槍「日本号」の使い手【福島正則】
永禄四年(1561)に尾張で誕生した秀吉の親族。成り上がりのため家臣団がいなかった秀吉の下へ幼少期に送られてきた。
福島市松と加藤虎ノ介は、同世代で秀吉の尾張衆の小姓として正室のねねに可愛がられて育ったと言われる。
賤ヶ岳の戦いで七本槍の一人に数えられる働きでデビューすると、市松と虎ノ介は数多の戦で武勲を上げる。
後に大名となり福島正則、加藤清正として豊臣家を代表する武将に成長。
四国攻めで武功をあげると、伊予今治十万石の大名になる。九州攻め、小田原征伐、朝鮮出兵と若き猛将として秀吉の快進撃を支えた。
秀吉死後は、武断派の主力として関ヶ原で家康の東軍につき、文治派の石田三成、小西行長、大谷吉継らが主導する西軍と戦って勝利。
福島正則は関ヶ原で抜群の武功をあげている。東軍で最も多く首級をあげたという武勇伝を持つ可児才蔵が福島正則の部隊にいた。
正則はその武功によって安芸、備後に四十九万八千石を賜り大大名へと成り上がった。
慶長十六年(1611)に家康が秀頼との会見を要請すると、黒田長政、加藤清正とともに淀殿へ会見を承諾するよう説得し、会見が実現した。
会見後に加藤清正、黒田長政、池田輝政ら関ヶ原で家康に与した豊臣家の武断派の面々が相次いで死去する。正則は隠居することに決めた。
大坂の陣で秀頼に加勢を求められるが正則は拒否すると江戸に拘留される。
元和五年(1619)に台風で被害に遭った広島城の改修を無断で行ったことを、武家諸法度違反と咎められ改易。
清正とセットにされる正則だが、後世の評価で差が出るところが、築城のセンスや内政も無難にこなして知的な印象も兼ねる清正に対して、正則は酒での失敗が多く猪突猛進タイプの武将と扱われている。
親分の秀吉や老獪な家康に対しても純粋に憧れ、秀吉亡き後、恩義のある豊臣家の滅亡を招く家康の天下取りを助けてしまっている。
福島正則の太刀は長船兼光、別名福島兼光の名をつけられた名物で現在では国宝となって、東京国立博物館へ所蔵されている。
福島正則の槍は日本号と呼ばれ、本田忠勝の蜻蛉切、結城晴朝の御手杵に並んで、日本三名槍に数えられる。
インパクトのある水牛の角をあしらった飾りが特徴的な兜を装備していた。
幼なじみで盟友の加藤清正は大名となった熊本で絶大な人気を誇るが、福島正則は大名となった広島で特に人気が得られない。
広島では毛利元就、小早川隆景の毛利家の人気が遥かに勝る。
それでも、立派な武器と兜を装備する姿、関ヶ原の大戦では部隊にレジェンドの可児才蔵と、猛将としては魅力的な戦国武将。
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