存在の肯定と否定(2024年のデルタ95)
「僕は80億分の1と分かってる賢者なんだ」からの「自分が替えのきくパーツに過ぎなかった。僕の存在の意味はなんだったんだ」
そんな考え方するから『明日死ぬと知った幸福の王子』になる
まあ、その思想って産業革命で労働者がふとした時に気付く自己不安なんだけど、ハイデガーの思想だけあってファシズムへ繋がるな
君は人類という規模で見た時に80億分の1かもしれないが、君は君だけだろ?
そもそも、自己の存在を疑う時期が遅過ぎかな。思春期くらいで悩む事だよ
君が80億分の1なら君のパートナーも80億分の1、君の子供もまた80億分の1だ。
所謂思春期ですね
まず、「80億分の1に過ぎないって僕は分かってる」から、まあ、間違いと言えば間違い
替えの効くパーツ
そんな考え方したら、自分の存在の無意味さに気付くだけだろうに
そうじゃなくて、君は君一人しか存在しない。例えコピーがあった所で君は君だ
漫然と生きるからそんな思想になる
特効薬としてはメメントモリ
『明日死ぬ事を思って生きよ』
なんだけど、意味分かるかな?
リルケの言葉にこんな言葉がある
『明日世界が滅ぶとしても私はまた一本花を植えよう』
例え明日世界が滅ぼうと、明日死ぬとしても、やっぱり私は今日も『花』を一本植える。これが、メメントモリの解であり、生きるという事だ
明日死ぬ事を思って毎日を生きなさい。という教えではあるが、どこへ繋がるかと言えば、リルケのこの言葉へと繋がる
だいたいだな。自分の存在の儚さに憂えるとか思春期問題さな
尾崎の15の夜でも聞けよと言いたくなる
俯瞰視野を獲得したつもりで、そんな視点を持ってみたところで、『有益』な歯車に過ぎず、『有益』でない者は必要がない、『有益』な者だけ集めよう、当然、『有益』でないものは不必要で捨てられるという所謂ファシズムへしか届かないさな
この思想の元さな。実際ハイデガーだしそんなもん
そうじゃなく、君は君一人しかいない。そもそも、自己の証明など『我思う故に我あり』しかない。自分が『何を信じ』『どう生きたか』という事が、君を『何者か』にするんだよ。その『何者か』は余人に代えがたく、貴重な一人となる訳だが。実は全員がそうな訳で、過ち成功両方を含めて君は『何者か』になる訳だ。それは妻にとっての最愛の夫であり、社会的にはさしたる意味はなかったとしても、余人に代えがたい者となる訳だ
そして人はそれを『成長』と呼ぶ
だから、君が自分を単に80億分の1としか見れないのであれば、君は替えの効くパーツにしかならない。そのパーツが君じゃなくて、俯瞰してる君こそが本当の君な訳だ
にも拘らず、替えの効くパーツだと信じる事は結局はファシズムという混沌へとしか繋がらない。君のその思想はファシズムの入り口に過ぎない訳だ。それは賢者の思想ではなく、小学生時代に考える事だ。そこから思春期に入り、自己の存在の危うさに悩み、自分の生き筋を決めて大人になる。そして自分の信じる『何者か』になるよう精進していく訳だ
自己の存在証明など哲学的には『我思う故に我あり』しかない。他者の存在も全て幻かもしれない。そんな中で自分が自分であろうとする事を捨ててはダメだよ
そういう答えって実はサブカルとか音楽にいっぱい入ってるよ
勉強以外の事も学ぼうかね
「ちょっと上から目線ですか?」
いや、思春期レベルの悩みだからね
「ですね」
ちゃんちゃん
「アーメン」
アーメン