秋の風景を、ここに閉じ込めて。
コスモスが、高くそびえる畑がある。
細くてガリガリなのに、えらく逞しそうなおじいちゃんが、せっせと野菜を育てる近所の畑だ。
その前を通ると、立派な野菜が何列も何列も並んでいて、その畝のあいだに座り込み、黙々と草むしりをするおじいちゃんが見える。
ご挨拶をしても、大きな返事は帰ってこない。
でもときどき、おもむろに立ち上がり、「かわいいから、ホラ」と言って、子どもたちに野菜をくれる。
小さい頃の長男は、長男の腕くらいありそうなきゅうりをもらった。
次男も、焼きたてのお芋を。
「親戚集まって、焼き芋した残り」と照れくさそうに話していたが、次男は跳ねて喜んだ。
名前も知らない、細いおじいちゃん。
その畑の、いちばんよく見える道路沿いに、そびえたつ、コスモス。
通りすがりの人が、写真を撮っていく。
そのコスモスの前に立つと、写真の枠いっぱいにコスモスが映るだろう。
そのコスモスの壁のむこうで、おじいちゃんはその人たちに見向きもせず、せっせせっせと草むしりをする。
◇◇◇
彼岸花も、見かけるようになった。
束になって、あちこちに集まる赤い彼岸花。
なんだか、至るところで密談している女子グループみたいに見えて、そわそわする。
彼岸花は、今でこそ「秋らしく、美しい」と思うが、小さいころは恐ろしかった。
保育園のとき。
彼岸花の咲く原っぱで、写真を撮る日があった。
同じ組のだれかが「彼岸花には毒がある」と言いふらしていたので、わたしは彼岸花のそばに寄るのがイヤでイヤで、半べそだった。
おかげで、写真は笑えるほどの仏頂面。
先生は、どうしてこんなおそろしい場所に、わたしたちを連れてきたのだ。
こんな花と写真を撮るなんて、何かあったらどうしてくれるんだ。
そんな、文句を溜めに溜め込んだ顔で、むっすり帽子をかぶる、小さなわたし。
そのまわりに、赤い彼岸花があっちにもこっちにも集まって、ヒソヒソと誰かの陰口を言っているように見えてしまうのだった。
◇◇◇
いちばん好きなのは、イチョウだろうか。
イチョウ並木の、あの鮮やかな黄色。
人口では作れない、橙色や黄緑の混ざった、グラデーションのようなイチョウの紅葉は、秋晴れの空によく似合う。
しかし、イチョウの足元に落ちる銀杏。
あれは、ねえ。
踏んだら、臭いし。
潰れた実が、歩道を汚すのもいただけない。
美しいイチョウの木の下は、いつもドロドロで、通るのがはばかられるほどだった。
小学校のころは、「銀杏が臭い」というのがあまりよく分からなくて、みんなが「臭い!」と騒ぐから、いっしょになって「臭い」と言った。
言わなきゃ、仲間はずれだし。
やんちゃな男の子は、「銀杏爆弾!」とか言って、女子に実を投げ、きゃあきゃあ言われていた。
幼稚なノリに、ついていくのに必死な秋だった。
◇◇◇
でも、田舎の散歩道でいちばんよく見かけるのは、コスモスでも、彼岸花でも、イチョウでもない。
セイタカアワダチソウだ。
黄色い頭がついた、長い雑草。
ブタクサという似たような植物もあって、葉っぱの形状が違うそうだが、遠目からはどっちだか分からない。
それがもう。
歩く風景の、どこにでも咲いている。
しかも、けっこうな量で。
風が吹くと、ゆんらゆんらと揺れて、ときどき歩道に顔を出している。
なるべく、当たらないように避けるのに、次男は右手で、びょいんとたたく。
そのとき、なにか粉々しいものがぶふぁっと出ているように見えて、「ひぃ」と思いながら逃げている。
ススキも多い。
ネットで、「ススキだとおもっているものの多くは、実はススキではなく、オギ」いう情報を見てからは、どれを見ても「これはオギかもそれない」と思う。
白いふわふわした先っぽが、風でさわさわと揺られる風景は、秋らしい。
まぶしい日の光で、一面のススキ畑がきらきらと輝くのも美しい。
5年生のの写生大会で、ススキを描いたことがある。
河原の橋の下に、一面のススキ畑があったので、橋や川をすべて仕上げた最後に、ススキに色をつけた。
濃いめの白い絵の具で、小さな点や短い線をひたすら描いていく作業。
小学生には、途方もなかった。
ススキは、描かずに、見るに限る。
謎の決意を秘めてからは、一度もススキを描いたことはない。
◇◇◇
当たり前のように広がる、秋の風景。
寒くなれば、あっという間にこれらは消えてなくなってしまう。
すべての植物は枯れ、長い冬がやってくるのだ。
そうなる前に。
秋を感じる心といっしょに、ここに、書いておこうとおもった。
今年見た風景を、来年も見られるとは限らない。
だから、「note」に閉じ込めておきたかったのだ。
秋。
もうすこし続く、秋。