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「子どものため」ばっかり、考えなくていいんだよ。
子育てセンターの焼き芋大会に参加した。
焼き芋大会なんて、先生がほとんどやってくれる。
子ども連れの私たちは、火の中に芋を投げ入れて、あとは出来上がるのを待つだけ。
わいわいとおしゃべりしたり、子どもの遊びを見守りながら待ち、できあがったお芋や、差し入れのおにぎり、お汁などをありがたく頂いた。
ただの食べる会だ。
しかしそれがまあ、ほっこりとあたたかい。
秋空の下、火に集まってワイワイとお芋を焼くだなんて、なんと「秋らしい」過ごし方だろう。
しかし、5年前。
長男が生まれたころのわたしは、こういう「お母さんが楽しむためのイベント」に参加するのが苦手だった。
大人主体のイベント。
ママが主役のイベント。
子どもはまだ小さいからよく分かっていないと思うけど、お母さんが楽しみましょうね。
そんなイメージの企画すべてが、わたしはとても「きらい」だった。
当時、育児初心者だったわたし。
何をしていても「子どもの役に立つか」、「この時間はこの子にとって有益か」、「いい経験になるか」と、我が子のことばかり考えていた。
育児本を読み漁って、何が子どもの脳を育てるとか、どんな経験をさせた方がいいとか、そんな知識ばかり収集して。
それ以外は「無駄だ!」と決めつけていた。
だから、子どもを放ってママヨガなんて信じられなかったし、ママが菓子作りやフラワーアレンジメントを楽しむ会など、子どもには何が起きているのか分からないようなイベントには、とことん参加を渋った。
それよりも、子どもたちがいっぱい走り回れる公園に行こうよ。
子どもが楽しめる講師の先生をお招きしようよ。
そんなことばかり、訴えた。
親が楽しむなんて、無駄な時間だ。
本気でそう思っていた。
しかし、いまは違う。
次男を連れて、そういう「大人主体」のイベントにどんどん参加するようになった。
それは、なぜか?
わたしが楽しんでいると、子どもも楽しそうだからだ。
今日の焼き芋もそう。
うちの子は、機嫌が悪くて、煙の近くに行くのを嫌がった。
サッサと部屋の中に戻ってしまったので、実質食べに来ただけ状態だ。
でも、それでいい。
来ただけでいい。
わたしは、焼き芋という行事を味わったのだからいいのだ。
秋空の下、みんなで火を囲んで、芋を投げ込む
なんて体験。
わたしだけだったら、一生しなかった。
煙の匂い、枯れ葉を踏む音、できたてのお芋の黄色、甘くて優しい味。
しみじみと、秋を感じる時間だった。
全部は一緒に楽しめなかったけど、次男もそれなりに楽しんだ。
それでいいのだ。
それが、大事なのだ。
お母さんが楽しい気持ちでいること。
今日ここへ来てよかった、とおもうこと。
無駄かどうかとか、うまくいったかとか、そんなことよりに重きを置かないで。
ただ、ここへわたしが参加したこと。
それだけに、とても価値があるのだ。
もちろん、うまく参加できなくてイライラしたり、自分の子だけ言うことを聞かなくて泣きそうになったりする時もある。
それも、参加経験を増やしているうちに、だんだん「まあ、いいか」と流せるようになった。
気負わなくなったのだ。
育児の中での、大きな心境の変化だった。
どこかへ連れて行ったり、何かに参加するハードルも、ぐっと低くなった。
お母さんであるわたしが、楽しい。
ただそれだけで、よかったのだ。
5年前のわたしへ、メッセージを贈りたい。
頭カチカチ、肩に力が入りっぱなし、眉間にいつもシワを寄せた、わたしへ。
「子どものため」ばっかり考えなくていいんだよ。
わたしが楽しんでいいんだよ。
わたしがニコニコしていれば、子どもはそれだけで、楽しいんだよ。
ただそれだけで、いいんだからね。
育休も、いよいよ終わりが近い。
仕事に復帰すれば、こんなゆったりとした過ごし方はきっとできないだろう。
だから、今は。
息子といっしょに「美味しいね」って、笑ってお芋を食べるお母さんでありたい。