わたしの「仕事のスタート地点」は。
島田潤一郎さんの『古くてあたらしい仕事』を再読しているとき、目についた言葉があった。
島田さんは、愛する故郷・室戸(高知県)で、大好きな従兄を亡くし、残された叔父と叔母のために、できることを探していた。
幼少期、室戸で従兄と過ごした夏休み。
そこでのかけがえのない日々をふりかえりながら、島田さんは「そこが、仕事のスタート地点」だという。
ふつう「仕事」と言われたら、「お金」が発生する「仕事」を連想する。
でも、島田さんの言うスタート地点は、それよりもはるか前。
「誰かのためになにかをしたい」という強い欲望の湧いたときだ。
島田さんは、叔父と叔母のために、一編の詩を「本」にして贈ろうと動き出した。
それが、ひとり出版社の始まりだった。
誰かの役に立ちたい。
大切な人を喜ばせたい。
そんな思いのもとをたどって、たどり着いたのが、従兄との日々。
だから、そこが「仕事のスタート地点」。
そこが、島田さんのはじまりだったのだ。
では、わたしは?
わたしの「仕事のスタート地点」はいったい、どこだろう。
教師になる以前の、もっともっと前。
そもそも「教師」という仕事を思いつくより、もっともっと前。
純粋に「だれかのためにできること」を探した日。
それを、やり遂げた日。
それをもとに記憶をたどれば、思いつく場面が二つあった。
◇◇◇
ひとつは、保育園年長のときだ。
「この子と、遊んであげてくれる?」と、先生が女の子を連れてきた。
「ユウコちゃん」といった。
年少なのに、年長のわたしより大きい。
髪が長くて、二つに結んでいるところがわたしとおそろい。
遊ぶ友達がいないようで、うつむいていた。
太陽に照らされたおでこが、ピカピカしていた。
わたしは、先生に頼まれたことが嬉しくて、「いいよ、行こか!」と、ユウコちゃんの手をとって走り出した。
園庭で一番お気に入りの、大きなすべり台に連れて行き、「こうやって登るんよ」と、偉そうにやってみせた。
その日、どんなふうに遊んで、話して、別れたのかは記憶がない。
ただ、その子と別れた後、先生がいってくれた言葉を今でも覚えている。
「助かったよ。
◯◯ちゃんに頼んで、よかった」。
そう言われたわたしの頬は、真っ赤だったにちがいない。
◇◇◇
もうひとつも、似たような場面だ。
小さい頃、アパートに住んでいた。
たくさんの家族、たくさんの子どもたちがいて、わたしと幼馴染は、いちばん年上。
子どもたちのリーダーのような存在だった。
わたしたちは、ナゾの使命感に駆り立てられるように、年下の子たちを束ね、世話をした。
親たちからは、よく褒められ、頼りにされた。
「面倒見がいいねえ」と言われるたびに、わたしたちは、ますます張り切った。
鬼ごっこも、かくれんぼも、あぜ道の探検の仕方も、全部私たちが教えた。
補助なし自転車だって、いっしょに練習した。
その子達の自転車の後ろにまたがり、一緒にハンドルを持ってやって、バランスを取りながら、何度も何度も、アパートの外周をぐるぐるとまわった。
誇らしかった。
あのときほど、「役に立っている」ことを純粋に実感できたことはない。
毎日、だれかが喜んでくれた。
毎日、頼りにされた。
そのアパートでの日々は、島田さんでいう室戸の夏休みの日々と重なる。
まったくちがう色の思い出のはずなのに、島田さんの本で室戸の話が出てくるたびに、わたしはアパートでの日々を思い出すのだ。
いい場所だった。
あそこで過ごした10年間は、わたしと幼馴染にとって、大きな意味を持っている。
その証拠に、わたしも幼馴染も、示し合わせていないのに、おなじ「先生」になった。
まったく違う県で、まったくおなじ「小学校教諭」として、子どもたちのために働いている。
偶然だけでは、済まない。
きっとわたしたちの「はじまり」は、あのアパートの日々なのだ。
◇◇◇
二つの「はじまり」があったから、今の仕事をしているのかもしれない。
いや、「教師」という職業にかぎらない。
あの日々が、今のわたしの「生き方」そのものだ。
アパートでの日々を思い出すと、あまりにも眩しくて、白くて、遠い。
記憶の彼方から、純粋なわたしの笑い声が聞こえてくるかのようで、鮮明に思い出そうとすればするほど、なんだか泣きそうになってしまう。
保育園の先生からもらった言葉も、そのときの響きが、空気が、忘れられない。
わたしの「仕事のスタート地点」は、たぶん、ここだ。
保育園の先生が笑ったときの、優しい目。
そして、アパートで小さな自転車の後ろにまたがったとき、顔にうけた爽やかな風。