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「いちば」と「しじょう」

「いちば」と「しじょう」漢字で書けば一緒「市場」
でも印象は違う。
「いちば」は活気、交流、賑やかみたいな暖かみ、ポジティブな感じがするのに「しじょう」は体温がない。利益、効率、生産性。デジタルの数字が点滅する。

ここは「いちば」だと思って来たのに結構「しじょう」
嫌なことか全てじゃないけど、しっくりは来ない。

noteはニューヨークのような街を目指しているらしい。

「NYへ行きたいか〜!?」と言われても別に行きたくない。
なんか意識高い系の人とか組織が書いた印象。そういう人たちが書いた「多様性」という言葉を読んだ印象に酷似してる。

ここはNYな感じがするか?って言われたらそんなこと思ったこともない。
noteという場所を知って、ここで文章を書く人を「クリエイター」と呼ぶことを知って「くっ、、くっ、、クリエイター、、、そんな呼ばれ方に見合う文章書けないっす。。。」と床に膝をついた。その呼ばれ方は今も馴染んでない。

ネットは「何者かでなくてもいい場所」「何者でもなくてもいい場所」そう思ってた。だから居られたし、求めて必要としてきた。
でもなんかだめみたい。無視ばかり食らう。構えだす。受け入れてもらえるよう努力しだす。正直に喋ったってそんなの要らないんだろう、ただ褒めて共感だけしてたら安全なんだろう。楽しくないそんなん全然楽しくない。
それでも人に話しかけたい。反応が欲しい。反応してほしい。無視でダメージ食らいたくない。でもどういう基準で「この人は無視しない」って判断すればいいのかこの場所はさっっばりわからない。

年末の池袋に出掛けたことがある。駅の構内を沢山の人が歩いていて、
皆、歩く速度が早い。
東京の人はぶつかっても謝らない。目的地に早く行きたいんだろう、早く行かなきゃいけない理由があるんだろう。
ぶつかった相手に対して「人」だと認識しないんだろう。
そこでは私を「人」と認識しなくても職場や家庭にいる人は「人」と認識するんだろう。本音で喋ってるかは別だろうけど。コミュニティ内の人しか「人」と認識しないんだろう。
都市、なんだろうそれ。

90年代、浜ちゃんの「WOW WAR TONIGHT」は
「流れる景色を必ず毎晩見ている 
 家に帰ったらひたすら眠るだけだから
 ほんのひとときでも 自分がどれだけやったか
 窓に映ってる自分を褒めろ」
という歌詞だった。

令和はアマゾンのCMで勤務先からの帰りであろう女性がバスの中でスマホをいじっている。
ネットショッピングをし、帰ったら見る動画をサブスクで選んでいる。
幸福そうに窓の外に目をやる。「いつだって自分のペースで」「いつだって自分らしく」と呟く。
自宅に着いた彼女はリモコンをテレビに向ける。

星新一のショートショートだ。これが幸福?これが自分のペースで生きるってこと??これが自分らしい生き方??職場と家を往復する生活の移動時間に買い物して好きな動画を選ぶことが?

平成では他にぼんやりする時間がないから、帰りの移動の時間はぼんやり窓の外を眺め、今日を思い返し、頑張ってる自分を認める、自分自身や見える景色に目をやる。
令和はスマホしか見ていない。

部屋のリビングで彼女は一人でテレビに向かっている。一人暮らしなのか、同居人がいるのかははっきりとはわからない。

こんなの見た。↓


トレンド??人生を変えた?
ただ普通に歩いてだけだっちゅーねーーーーん、(ちゅーねーん、ちゅーねーん、ちゅーねーん、、、)←エコー。


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