身体障害者に”別れ”を告げるために書きました!! vol.1
序章(プロローグ)
こんにちは。”番長の見聞録!”です。
2011年3月11日、東日本大震災が襲いました。この年の2月に結婚をし、ふじみ野市(埼玉県)で生活を始めたばかりの時でした。当時、私の会社は、東京の新橋でした。LEGOブロックをアウトレットで扱うお店で、関東以北で全部で8店と、LEGOブロックを使った幼児教育をするお店を1店やっており、そこでは社長の次のポジションで働いていました。
地震と津波が襲った仙台には2店舗あり、そのうちの仙台泉店の従業員は全員無事の連絡が入ったのですが、仙台港店から”津波が来るから、これから逃げます”と一報が入ってから、誰とも連絡がつかなくなりました。東京は東京で、全路線で交通が止まりました。私は、新橋から妻の勤め先がある半蔵門へと歩き、妻を拾い、新高円寺の近くの義姉の家に泊めてもらいました。はっきり覚えていませんが、道路も混んでいて、半蔵門から歩きで3時間位掛かったのかな…。
翌日から私は、仙台港店の従業員と一人ずつ連絡を取ろうとしました。そして、やっと4、5日目に最後の一人と連絡がつきました。テレビで現場が中継されると、胸が張り裂けそうな思いになりました…。仙台に物資を持って行く社員も決まり、やっと落ち着いてきて、そして安心しました。そんな土日月の3連休の週末のことでした、私が”倒れた”のは…。
土曜日の夜分のこと、私の異変に気づいた妻が、すぐに救急車を呼びました。私は、しゃがみ込んでいて、少し朦朧としてきてました。すぐに救急車が来たのは良いのですが、今度は出発しません。出発したのは、2時間ほど経ってからでした。挙げ句の果てには、日高(埼玉の山の方)の病院に行くというではないですか。救急車を飛ばしても、軽く1時間は掛かる場所です。私は、やっと走り始めた救急車の中で気を失いました…。
埼玉医科大学国際医療センターに運ばれました。私は、もう覚えていない状態になっていました。妻は、待合室で2時間位待っていました。もちろん、何回も何回も夫の状態を尋ねましたが、梨のつぶてです。診察の結果、左被殻部からの脳出血でした。医師は"手術"には回さず、「まずは上がり過ぎた血圧を下げ、この三日間は命を繋ぎとめることに専念しましょう」と。妻はその時内心で、”死ぬことはないな、大丈夫”と思ったそうです。そして妻が、最初に医師に尋ねたことは、「脳出血などは、場所によって性格が変わると言いますが、大丈夫ですか?」と。医師は、「えーと、左からなので、おそらく大丈夫だとは思いますが、後遺症はどのように出るか、ハッキリ分かりません。出血量からすると、相当な後遺症だと思います」と、夜中の3時頃に妻は告げられたそうです。
妻は、救急車で運ばれてから3日目に、最初の医師とは違う医師に「どのくらい後遺症が残るかは分からないし、最悪の場合は、寝たきりになる事もあります」と言われました。”この医者、何言ってんだ”という気持ちで妻がいてくれたのが、唯一の救いだったかもしれないね。そんな私は、ICUのベッドでほとんど意識もなく、色んな管に繋がれていました。
<夫のひとりごと> 妻に感謝! ただ、私は思う。妻が最初の診断の説明の後、一番最初に医師にたずねた事が、私の性格が変わるかどうかなんて…。そこ〜‼️ 最初に尋ねたねるところがそこなんて…‼️ うん、変わってる…😅
その後、私は脳出血で、右片麻痺と言語障害、高次脳機能障害があると、診断を受けました。そのことは、日を改めて書きます。
次号は…
次号は、右片麻痺と言語障害、高次脳機能障害の症状と、”感じ方”を書いていきます。
それと、私が”この文章”を書くのに、どのくらい”膨大な時間”を費やしてきたかを、ご推察頂けたらと思います。
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