坐禅会レポート5

坐禅会最終日。
今日も40分4セット(2時間40分)を行う。

今日は少し足が痺れた。昨日は痺れなかったのだが足の位置が悪かったのだろうか。姿勢と呼吸についてはだいぶ安定してきた(1日目と比べてだが)。首が前に出てしまう癖はなかなか治らないが、日を重ねるごとに改善されているように思う。
そして1番の課題である意識について。今日は体が安定してきたので思考に割ける時間が増えた。人間の雑念とは凄まじいものでいくら呼吸だけに意識を集中しようとしても、さまざまな思考が流れてきてしまう。これについてはしょうがないことだと和尚もおしゃっていた。ただ過去の出来事に囚われる(和尚は捕まえると表現していた)のではなく今ここにあるものしか存在しないということを坐禅が指し示していると言う。この言葉について5日間坐禅を行なって自分なりの解釈が出た。
坐禅中は40分間じっと座って思考と向き合うことで時間の経過と動かない自分が対比される。それは日常生活で常に行動し様々な情報に意識が分配されている自分と、坐禅中動かずに自分の内からくる情報(外から入ってくる様々な音による情報のあるが)に意識を集中させる自分という対比でもある。つまり今ここにあるものは川の流れの中で岩のように動かない自分であり、川を流れる水ははるか下流の海へと合流し、岩の横を流れていた頃の原型はない。坐禅が指し示しているというのはこのことだろう。

まとめると
①外部から入ってくる情報を抑制し己の内に意識を向けることで自分/世界が対比される。
②40分という時間の中で様々な思考が流れていき、流れゆく時間の中での自分を認識する。
③坐禅中に考える過去の出来事や、浮かび上がってくる思考も時間の流れに流されていくことを認識する。
つまり坐禅中に様々な思考が出てくることは必然であり、頭を空っぽにする・無になるといった効果はないのだろう。今この瞬間に存在する自分に意識を向けるということが、無になるということなのかもしれない。

40分動かずに座っていると体は痛くなるし、眠くなる時もあるし、外から入ってくる音も気になる。これらは気が散っているということではなく、時間の経過のおける自分の立ち位置(空間)を示しているのだろう。

"坐禅が指し示すもの"について自分なりの解釈をしてみて、瀬戸内海の直島にある南寺という建物があるのだが、そこで体感できるジェームズ・タレルのインスタレーションを思い出した。寺の中は窓が無く、真っ暗であり、この空間に30分間滞在するというアート作品である。しかし、本当に何も無いわけではなく、ごく微小な光を放つ光源が設置されており、目が慣れてくると光の存在に気づくといった内容である。この作品は暗いところに居ると徐々に物が見えてくる『暗順応』という人間の目の特性(約30分とされている)を使ったものである。
限定された視覚情報の中で、そこに"在る"光の存在に気づくまで待つ。坐禅が指し示す時間と空間の捉え方を簡易的に体験できる空間だったのだと、坐禅を通して改めて思い返す。

これで坐禅会レポートは終わりとなるが、1回目で瞑想と坐禅を混同して書いていたことを訂正したい。坐禅と瞑想では目的が違う。検索すればすぐに出てくることだが、体感してみて思ったことは坐禅の奥深さである。坐禅が指し示すものを真に理解するには何十年も鍛錬が必要なことを身をもって体感できた。おそらくだが、瞑想で得られるものは坐禅中に意識する姿勢や呼吸のことであり、坐禅の思想を含まれていない。瞑想のやり方は、5日間もあれば習得できるだろう。坐禅を習得するには今後も継続して、人生を通して取り組む必要がある。そして、人生を通してやる価値のあるものだと実感した。

今日も坐禅終わりの帰り道は気持ち良かった。坐禅会への参加はこれで最後になるが、これからも坐禅は続けて行きたい。

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