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三角形に閉じ込められた夏

#創作大賞2023


はじめに

飛行機日和の晴天。
夏雲がそそり立つ空に向かって、次々と飛行機が飛び立っていく。
仕事で北海道に出張する機会が多いのだが、空との相性は良いらしい。出張のときはたいてい天気がいい。
今日も快晴で飛行機は揺れなさそうだ。
同じチームのメンバーとは別々に航空券を取ったので、周りに顔見知りはいない。気をつかっておしゃべりする必要もない。心行くまで小説に集中できそうだ。

私が勤めているのは大手の会計事務所で、全国にクライアントがあった。担当は上層部のパートナーが会議を開いて決定し、その結果次第で出張の多寡が決まる。
私は年の4分の1は出張に行くので、女性としては多い方だった。
出張を嫌がる人も多いが、出張のときは意外と時間に余裕があるので、終業後にまとまった時間がとれて好きなことができる。ゆっくりと本を読む時間もあり、普段忙しくしている私にとってはたまの息抜き代わりになっている。

これから向かう北海道帯広市にある企業もそのうちの1社だ。
羽田空港からとかち帯広空港まで直行便で1時間半。
さらにそこから空港連絡バスに乗り、40分もあれば帯広市内に到着する。
帯広は旭川や函館と並んで、北海道の中でもビジネスが発展している有数の地方都市だ。
街中にはビジネスホテルや飲み屋街や屋台もあり、温泉付きの宿もある。
私の定宿は、大浴場があり、朝食が美味しい。前日のごちそうで胃もたれしていても、見るだけで食欲をそそられるような料理が並ぶ。しかも1泊8,000円とリーズナブルなわりに、客が少なく、大浴場もレストランも自分のペースでゆっくり利用できるのが良かった。多少設備は古いが、それでも十分にお釣りがくるぐらい魅力的なホテルだ。

東京にいるときは、ほぼ毎日残業。クライアントから事務所に戻って働くこともあれば、直帰して自宅で仕事をすることもある。いつも週末にレポートの締め切りが設定されているので、クライアントの都合で資料の出が悪くても、担当者が残業してなんとか形にする。
男女の区別なく仕事ができるところがやりがいがあって良いところだが、残業や出張があるので、子どものいる女性にはフルタイムでは働きづらいかもしれない。ほとんどの人が時短勤務かパート社員として働いていた。
それでも、夏の閑散期だけは定時ぴったりで帰れる。あと少しの辛抱だ。
うちは既婚だが子どもがいなかったし、労働に見合う十分な報酬をもらっていたので、私としては今の働き方で特に不満はなかった。

私の主人、小西智弘は、同じ会社の同期だ。といっても彼と付き合い始めたのは大学3年生のときで、仕事が落ち着いたことに結婚した。なので職場結婚というのとは違うかもしれない。同じ職場に夫婦がいるのは働きづらくないかとよく聞かれるのだが、同期は全国に300人もいて、部署もかなりの数があり、ビルや階も異なっていた。部署が違えば社内で顔を合わせることもない。そして彼は私以上に出張が多かった。年の3分の1は出張していたので、会社どころか、自宅でもほとんど顔を合わせることがない。先のことはわからないが、この調子だとしばらく子どもはお預けになりそうだ。
お互い干渉せず言葉がなくても意思疎通に困らず、好きなように働ける自由な感じが、長年連れ添った夫婦のようで居心地が良かった。このまま子どもができなくても、夫婦で人生を謳歌でできれば、それで十分だと思っていた。体力があって体が動くうちはこの仕事を続けてキャリアを積もうと考えていた。

飛行機が間もなく着陸するとアナウンスが入った。小説を3分の1ぐらいまで読んだところで帯広に到着した。私は持参した栞を挟み本を閉じた。私の好きな小説家の本なのだが、今回の作品もかなり秀逸だ。

帯広に降り立つと、こちらも快晴だった。だが東京と比べると若干気温が低く湿度もなくて、夏なのに爽やかだった。これから手作りソーセージが絶品の行きつけの喫茶店に行き、本の続きを読みながらゆっくりと夕食を取ろう。

第1話 眠れぬ夜

出張は息抜きだといったが、もちろん楽しいことばかりではない。仕事自体は比較的残業が少ないのだが、食事の時間が面倒くさい。昼食も夕食もチームメンバー全員でとるのが暗黙のルールだからだ。

昼間はクライアントの役員が運転する車に乗り、地元で評判のお店へ行く。会社の業績や人事など会社の近況をヒアリングしながら食事をするので、昼休みも働いているようなものだ。
夜はチームメンバーで地元の名店をたずね、ご当地の美味しいものを食べる。私はチームの中で中堅どころにあたる。立場上、上司だけではなく、若手にも気を使いながら、差しさわりの無い世間話をして場を盛り上げるのも大変だ。神経を使い言葉を選びながら話題を振る。結局仕事をしているときと変わらない。
気を使いながらの食事は、消化に悪いことこの上ない。

その一方で、会社でセクハラ講習を受けているにも関わらず、上司からお酌を強要されることはよくある。
「梓ちゃんは既婚者だから、お酒ついでもらってもいいよね」
『ちゃん付けはNG』、『人妻だからってお酌を強要するのはおかしい』、『若い子ならセクハラになるけど、既婚者のおばちゃんならセクハラにならないというのは完全なセクハラ』などなど。言いたいことは山ほどある。
こちらが気を使っているのに、おじさんたちは悪びれることなく、軽々とセクハラのラインを越えてくる。

言い返すのも面倒だったので、1杯目だけビールを注いだ。あとはご自由にどうぞ。
上司の乾杯の掛け声とともに、全員が一気にビールを流し込む。
私は、ビールグラスに口をつけた振りをして、チェイサーで頼んだウーロン茶をこっそりと飲む。そして、あっという間にしぼんでいくグラスの中のビールの泡を見つめていた。
このパワハラかつセクハラの上司がいなければ、出張は楽しいはずなのだが。次回は、ぜひ1人で出張に行かせてもらいたいものだ。

そして今日もいつものように、チームリーダーが若手のスタッフを連れて2次会へと流れていく。1次会で解散組はお酒が飲めない、いつもの固定メンバーだ。夜風にあたりゆっくり歩きながらホテルに戻る。
クライアントでは、社内でうろうろするわけにもいかず、狭い会議室に座りっぱなしで、移動はすべてタクシーや社用車を使う。
飲食店からホテルまでの移動で、今日はじめて体を動かしたと気が付いた。ゆっくり歩いて20分程度の散歩だが、運動不足と胃もたれが解消されて気持ちが落ち着いた。

それにしても、北海道は夏とはいえ夜になると冷えこむ。お店から出てしばらくは良かったが、ホテルに着くころには体が冷え切っていた。部屋に戻ったらすぐ大浴場に行く準備をしよう。
鍵は今どきのカードキーではなく、棒に鍵がぶらさがっていて、鍵穴に鍵を差して回して開け閉めするタイプだ。部屋に入ると、ちょっと古めかしい、懐かしい匂いがした。こういうときは、レトロな雰囲気が落ち着く。
「ただいま」
誰もいない部屋に向かって独り言を言う。
厚手のカーテンを閉めずに出かけたので、カーテンから月明かりがよく見える。
心地よい時間。やっと訪れた安らぎの時間。

実は、病院には行ってないのであくまで自己診断なのだが、私は睡眠障害なのだと思う。毎日眠りが浅く寝た感じがしない。途中で目覚めてしまうことが多く、睡眠時間は1日平均4、5時間だ。
そして毎日のように夢を見る。書類をチェックしていたり、締め切り間際で急いでレポートをまとめていたり、上司に叱責されていたり、夢の中でも働き続けている。そして、起きると、朝なのにグッタリと疲労がたまっている。
ワーカホリックだな。睡眠障害の原因は、明らかに今の会社や仕事のストレスだ。仕事をやめない限り、睡眠障害は続くだろう。自分でも理由はわかっている。会社をやめさえすれば解決する問題だ。
これ以上ひどくなるようなら、病院で睡眠薬を処方してもらおうと思っていた。

一方で、出張のときはよく眠れる。割と少人数でマイペースに仕事ができるせいか、ほとんどストレスがないからか、仕事の夢を見ない。普段の睡眠不足を取り戻すように9時間ぐらい熟睡する。
睡眠障害には、軽めの入浴とストレッチがいいとネットで書かれたのを見た。今日は大浴場でのんびりしてこよう。
大浴場は誰もいなかった。ほかの客はまだ出かけているのだろうか。お湯につかると、夜風で冷えた体にお湯が沁みわたる。風呂から上がって休憩場にいったが、そこにも誰もいなかった。せっかくなので広々とした休憩場を貸し切りで使わせてもらった。ストレッチをして、凝り固まった体をほぐした。お風呂とヨガの効果で、一気に血液が流れ出すのを感じた。

部屋に戻るとまだ9時半だった。両隣の部屋からは何も物音が聞こえてこない。さきほどの大浴場や休憩場のがらんとした光景を見る限り、両隣とも空室なのかもしれない。
そして上階の部屋にしてもらったおかげで、外の音もきこえない。心臓の音が聞こえるぐらいの完璧な静けさがとてもいい。
日頃の東京の喧騒から遠ざかり、至福のひと時を迎えた。
早速ベッドに滑り込んだ。今日は安らかに眠れますように。

第2話 死者との再会

出張先ではいつも夢を見ることもなく熟睡する。だが、その日ははじめて夢を見た。
夢に出てきたのは、大学の同級生の青山篤史君だった。10年ぶりの再会だ。
彼は黄色地に、レゲエのバンドのロゴが書かれたTシャツを着て、ジーンズをはいている。大学生の頃の彼だ。
そして夢の中の私も、10年前にタイムスリップしたかのようだった。当時流行した小花柄のワンピースを着て、グラディエーターサンダルを履いている。この靴を履くと背が高く、スタイルアップできるわりに、足が疲れないのが良かった。大学生のときのお気に入りのコーデだ。
彼がいなくなってからの喪失感は言葉ではいい表すことはできない。会えなくなった最初の何年間かは、思い出すたびに人目をはばからず涙が止まらなかった。
ずっと会いたくてたまらなかった彼が、今目の前にいる。

「梓、なぜ僕が自殺したかわかる?」

彼は私に、自分の自殺の理由をたずねてくる。なぜそんなこと私に聞くのだろう? 自殺の理由がわからず、苦しんだ10年間。ようやく落ち着いたころに、また過去に遡らないといけないのか。

夢の中では、彼は三角形の部屋の中にいた。
大学生の時に都心で一人暮らしをしていたときは、長方形の一般的な間取りの部屋に住んでいた。だから、この部屋は夢が生み出した空想の部屋なのだろう。
どことなく魔法陣を彷彿とさせる、正三角形の部屋。どこに視点を定めても壁が斜めに見える。バランス感覚がおかしくなり、気持ち悪くなりそうだ。
彼は部屋の隅に立ち、じっと私を見つめている。
戸惑う私を、彼は微笑みを浮かべながら見ている。

今から10年前の夏。私たちが大学3年生だったとき、彼が部屋で自殺しているのを見つけたと、おばさんから聞いた。
真夏に数週間放置されていたので、かなり腐敗が進んでいたそうだ。
彼が亡くなったと聞いて実家に級友たちが押し寄せた。彼の自殺の理由がなんだったのか質問したが、おばさんは、遺書はなかったし、なぜ自殺したのかわからないと言った。
なので、私は今もなぜ彼が自殺したのか理由を知らない。
それなのに、今頃夢に出てきて、しかも自分の自殺の理由を聞いてくる。
しかも、なぜ彼は自分で自殺の理由を明かさないのだろう。当の本人が言えば済む話なのに。ひょっとしたら私自身が気がつかなければならない何かがあるのだろうか。

彼の実家にいった級友は、大学の語学クラスの中の仲が良いグループの仲間だった。私たちのグループはとても仲が良く、食事に行ったり、遊びに行ったりして、大学生活を謳歌していた。その同じグループに私と青山君もいた。
実は、青山君とは、グループのほかの仲間よりも、さらに深い関係だった。
飲み会の帰りに酔って私の家に来たとき、流れにまかせてセックスをした。その後は、1、2か月おきにどちらかが連絡しては、昼からお酒を飲み、遊び、セックスをした。いわゆるセフレだった。
「また今度会おう」
いつかはわからないけど、そう遠くはない今度。お互いの無事を確かめるように。少し間隔を空けて、定期的に逢瀬を重ねていた。
「好き」とか「愛している」とか「付き合いたい」という言葉は、私たちの間にはなかった。誕生日は知っているが、誕生日やクリスマスを一緒に過ごしたこともない。
恋人同士の煩わしい儀式をしなくても、体も心も通じ合っていた。プレゼントを渡したことは一度もないが、お互いを大切に思いやることはできていたと思う。

一方で、彼は女子学生から人気があった。とても背が高く、雑踏の中でもすぐ見つけられるぐらい色白で、女形のようなすっとした目鼻立ちをしていた。見た目もそうだが、女心がよく分かる、紳士的な振る舞いも人気の理由だった。だからいつ彼女ができてもおかしくなかった。

いつもお気に入りのレゲエのロゴ入りTシャツを着て、レゲエのニット帽をかぶっている姿が男らしくて、彼の内面と不釣り合いなところが彼らしかった。
彼は音楽が好きだった。中でもレゲエにはまっていた。部屋の壁一面にCDが収納されていたが、いつもレゲエを聞いていた。ボブ・マーリーやジャネット・ケイ、ピーター・トッシュらは、耳にタコができるほど聞かされた。おかげで私もにわかで詳しくなった。

そんな、彼にもっとも似合わないもの。それは肩に彫られたタトゥーだ。蛇とイニシャルのタトゥー。イニシャルの文字の『TK』は、おそらく本命の彼女のイニシャルなのだろう。
抱き合うたびに、ちょうど彼のタトゥーが視界に入り気が散る。お互いに干渉しない関係のはずなのだが、本命の彼女の影をちらつかせながらのセックスは、決して気持ちの良いものではなかった。そういうときはいつになくイラついてしまう。もし本命の彼女の存在を知ってしまったら、私たちの関係は壊れてしまうと思った。そして、この適度な関係がいつまでも続けられるように、イニシャルについて追及するのはやめようと決めた。

3年生になると、語学の授業がなくなり、みんなそれぞれ専門分野を履修するようになる。仲の良い友達とはランチや放課後に会っていたが、それも少数の限られた人だけだった。そしてなぜか、青山君を大学で見かけることもなくなった。
音楽好きが高じてCDショップでアルバイトを始めたので、アルバイトが忙しくて大学に顔を出していないのかと思った。

私の方は、3年になってすぐ彼氏ができた。小西智弘。彼とは、学部は別だが、会計系の資格を目指す人たちが集まる、大学のサークルで知り合った。彼から告白されたとき、私は迷わずOKした。
自分の生き方、進むべき道を、迷わず生きているところが素敵だった。とてもしっかりしていたので、同い年だが、年上のように感じることも多かった。真剣に将来のことを考えているところや、ボランティア活動をしているところも、好感が持てた。
実は、青山君に彼女がいたことが、私と智弘の交際を後押しする要因となっていた。
そんなこともあり、私は青山君が大学に来ないことをそれほど気にもとめなかった。きっと彼女と幸せにしているのだろう。
そして、その夏は、結局青山君とは会わずじまいだった。

夏が終わる頃、はじめて青山君のお母さんから自宅に電話がかかってきた。
だが、それはまったく予想していなかった内容だった。
「梓ちゃん? 実は篤史が亡くなったの。お線香あげにきてくれない?」
9月に入ったが、残暑の厳しい夜だった。だが、洋服の首元から氷を入れられたかのように、全身に冷たいものが走った。
私もおばさんも無言だった。電話の向こうから、かすかにチリーンと風鈴のなる音がした。

自殺だったので、葬儀は近親者だけで行われた。
自宅で死亡していたため、数台のパートカーが来て、実況見分と検死が行われたらしい。
自殺の死因は、向精神薬を大量に摂取したことによるものだったとおばさんが教えてくれた。
彼はいつも大量のたばこを吸い、アルコール依存症のように昼から酒におぼれていた。彼が驚くぐらいハイになるときがあったので、私は直接見たことはないが、おそらく大麻を吸っていたのではないかと勘繰っていた。
警察が来たのなら、部屋の中を調べただろう。もしかしたら大麻が見つかったのかもしれないが、それについてはおばさんは触れなかった。
大麻の乱用で、衝動的に自殺願望が芽生えたのだろうか。
向精神薬を大量に持っていたということは、彼は長期にわたり精神科に通院していたのだろうか。
私が見ていない彼の灰色の一面が、どんどん浮き彫りになっていく。

電話をもらった翌日に実家に行くと、私以外にも数名の級友がお線香をあげにきていた。そして級友のひとりが、なぜ彼が自殺したのか、遺書はあったのかと尋ねた。だが、おばさんは「無い」、「わからない」の一点張りだった。
私はテーブルの一点を見つめたまま、級友とおばさんの会話に耳を集中させていた。そして、級友が質問してからおばさんが答えるまで、わずかに間があいたのを聞き逃さなかった。どう答えたらよいのか迷っている感じがした。ほんとうは遺書があるのかもしれない。

遺書の存在を明かさない理由はなんだろう。もしかしたら、そのとき集まったうちの誰かが、彼の自殺の原因だったのかもしれない。みんながいる場では話せないことや、2人きりで聞きたいことがあったのではないだろうか。だから、とっさに遺書がなかったことにしたのかもしれない。
推測の域を出ず、モヤモヤした感じが残ったが、私はその場の空気を察知して、それ以上詮索することはやめにした。

その後、みんなで一緒にお寺に向かった。墓石の裏には、亡くなった当時の年齢が彫られていた。享年20歳。若すぎる死だ。順番に並び、ひとりひとりお参りをした。みんな心の中で彼に言いたいことがたくさんあるのだろう。全員がお参りし終わるまで、かなり時間がかかった。

私はお寺とお墓の場所を覚えて、その後は1人でお参りに行った。1、2か月に1度、生前会っていたのと変わらないペースでお寺に行き、墓に眠っている彼に話しかけた。
「どうして死んじゃったの? あなたを必要としている人がいるよ。おばさんひとりぼっちになっちゃった」
互いに彼氏彼女がいても、私たちは一生離れられない関係だと思っていたのに。そして、1人残されたおばさんが不憫で仕方なかった。
「会いたい」
声に出して言ってみた。
私は両手で墓石を握りしめ、嗚咽した。私の声は彼に届いただろうか。

少し落ち着いてから、遺書について推論してみた。
ひとつめは、遺書はなかったという仮説。そうすると、おばさんは、唯一彼の実家に遊びに来ていた女子である私を彼女と勘違いして、彼の自殺の原因だと疑っている可能性が出てくる。
ふたつめは、本当は遺書があったという仮説。私の中ではこちらが有力だ。遺書はおばさんに宛てたものだけではなく、「TK」宛ての遺書もあったに違いない。そして、おばさんはすでにTKに遺書を渡し終えていて、自殺の理由を知っているという説。

いずれにせよ、私だって、青山君が自殺した理由がはっきりしなければ先に進めないままだ。
彼は私に向かって微笑んでいた。
「がんばれよ」
と言われた気がした。
いつもは熟睡するはずの出張の夜は、突然の来訪者で眠れぬ夜となった。私はそのあと、どこまでも暗く、底なしの記憶の沼を彷徨った。

第3話 手がかりを求めて神楽坂の夜

自分で言うのもなんだが、私は大学時代はかなりもてた。大学のクラスもサークルも、男女比率が8対2の割合で、女性が少なかったからという理由もあった。
だが、顔は平均点としても、肉付きが良い女性らしい体型で、色気がにじみ出ていると言われたことは何度かある。
また、これは関係あるかわからないが、学友や、バイト先で出会う様々な人から、私を見ていると死を思い出すと言われたことがあった。当時は、本当にいつ死んでもいいと思っていた。正確に言うと、人はいつ死んでもおかしくないと思っていた。
東日本大震災で多くの人が亡くなったのを見たからかもしれない。大人になったときのことや、ましてや老後のことなんて、思いも及ばなかった。就職という近い未来についても、私はその前に死ぬから関係ないと思っていた。
そんな過度な刹那さが、儚げにみえて、守ってあげたいと思われたのかもしれない。
モテる理由とは、意外なところにあるものだ。

そんな感じで、言いよってくる男子は大勢いた。だが私は束縛されるのも、相手を束縛するのも好きではなかったので、すべて断っていた。
一方で、青山君は体の関係だけで、一切束縛はなかった。お互いに、会いたいときにだけ会う。私が理想とする関係。彼はセフレで、同志で、一生の親友で、私にとって彼はパーフェクトな存在だった。

その彼が10年たった今になって自殺の謎解きを挑んできた。
この謎を解くとためには、まずは、青山君の2人の親友から話を聞くのが妥当だろうと考えた。
男性は、自分の弱みを他人に見せたがらないが、彼らになら打ち明けているかもしれない。何かしらヒントが見つかればいいのだが。一縷の望みをかけて食事の約束をした。

1人目は大学時代の親友の片山恭二郎君だ。
彼の職場から近い、神楽坂の中華料理店で待ち合わせをした。
私が約束の時間より少し前にお店につくと、すでに彼は座ってビールを飲んでいた。
「今日は暑いね。あまりに暑くてお先に1杯いただいちゃったよ」
彼は眼鏡をはずして、顔の汗をぬぐいながら弁解した。
私もおっかけビールを注文し、彼の2杯目と乾杯をする。
彼はサマーカジュアルなのか、仕事帰りなのに、ポロシャツにスラックスという軽装だった。大学時代の茶髪はなりをひそめ今は黒髪になっていた。彼は、夢だった新聞記者になったと自慢気だった。仕事柄取材も多いだろうし、移動で歩くことも多いだろう。大学時代のままの、均整の取れた体型を維持していた。そして、コンタクトから眼鏡に変えたせいなのか、いぜんよりもさらに知的に見えた。
彼は、結婚して子どももいるのだと、幸せそうに身の上話をした。
駆けつけ1杯を飲み干して、私は2杯目のサワーをオーダーすると、ジョッキに大盛のサワーが来た。いよいよ本題に入る。
「片山君と青山君って仲良かったよね。大学生の時、青山君が付き合っていた人がいたか知ってる?」
「さあ、どうなのだろう」
素っ気ない返事だ。だがこのまま引き下がるわけにはいかない。そこで別の角度から話を振ってみる。
「あのあと、お墓参りに行ったり、おばさんに会ったりした?」
「ああ。命日にはお墓参りに行っているよ」
「私も定期的にお墓参りに行ってる。でも誰にも会わないんだよね。おばさんがどうしているのか久しぶりに顔を見たい。片山君はおばさんとは会っているの?」
「会ったけど。以前のおばさんとは別人のようになっていた。前は僕らと一緒に、大学生みたいにはしゃいでいただろう? それが、すっかり老け込んじゃって。自分の実家と青山の実家が近いから、たまにお線香をあげさせてもらいに行くんだけど、家は荒れ放題で、人を呼べるような感じじゃなかった」

青山君が生きていたころのおばさんは、息子の友達が来ると、まるで自分の友達が来たかのように接していた。特に、唯一の女性だった私とは話が盛り上がった。梅干しの漬け方、味噌の作り方など、青山家直伝の美味しいレシピを教えてもらったものだ。私にとっては、友達であり、親戚であり、第2の母親のような存在だった。
おばさんがテーブルいっぱいに作ったおもてなし料理を、みんなで食べて、話し、笑い、楽しく盛り上がった。料理が好きで、息子の友達に食べさせることを生きがいにしているような人だった。
だが大切な一人息子を失い、同時に遊びに来る友達もいなくなった。孤独と虚無感に苛まれているに違いない。誰かのためにしていた掃除や料理もすることはなくなったのだろう。
「青山君が亡くなってから10年たつね」
おばさんにとっては、一人息子であり唯一の家族を失った悲しみは、10年経とうと癒えることはないだろう。私ですらそうなのだから。悲しみと深い孤独の中で必死に生きながらえている姿を思い浮かべると、やるせない気持ちになった。

私と片山君はしばらく黙って、ちびりちびりとジョッキに口をつけていた。そして、彼が重たい口を開き、最初の質問に答えるようにボソリと言った。
「俺、梓がつきあっているんだと思っていた」
「私? 付き合ってないよ」
私は苦笑いをした。
「なんでそう思うの?」
「なんでって、仲良そうだったから。ふたりでいるところを見かけたこともあった。たまたま公園に行ったら、お前らが楽しそうに手作りの弁当を広げて食べていた」
きっと、あのときのハイキングのことだ。まさかあんなところを見られていたのか。
「お前じゃないと言うなら信じるけどさ。でも付き合っていた人がいたのは絶対だ。3年生になったばかりの頃、青山が振られたと言ってひどく落ち込んでいたからなぁ」
「振られたの? それで、相手はどんな人?」
「俺はお前が彼女だと思っていたから、詳しく聞かなかった」
だからか。3年になってから、私に対して片山君が急によそよそしくなったのは。
「ほかに思いつく人はいない? もしかしたら高校の同級生とか、アルバイト先の友達とか、サークルの人かもしれないよね」
片山君はかなり考え込んでいる様子だったが、結局それらしい名前は出てこなかった。
「ごめん。全然思いつかない」
そのあとは、語学クラスの嫌味な担当教授の話や、ゼミの昔話など、差しさわりのない話をして、お開きになった。別れ際、今度青山君の実家に行こうと約束した。

とりあえず、ひとつヒントは得られた。青山君には彼女がいて、3年生のときに振られたという事実。片山君のほかに相談しているとしたら、もうひとりの青山君の親友、新部優斗君も話を聞いている可能性が高い。

また、脳裏にタトゥーのイニシャルがよぎった。
この答えを私は探し続けなければならない。
だが今日はこれ以上考えても答えはでそうになかった。頭の中で思考が堂々巡りしている。
片山君の、「振られた」そして「梓と付き合っていると思った」という2つの言葉が抜けない魚の小骨のように胸の奥に突き刺さった。
何もわからない自分が不甲斐なかった。

第4話 ゆがむ三角形の部屋

翌週は2泊3日で名古屋への出張だった。今回は上司と二人きりだ。
1泊目の夜は、名古屋駅近くの馴染みのうなぎ専門店に寄り晩御飯を食べた。ホテルは駅からかなり離れていたので、タクシーでホテルに戻る。
部屋に入るとまだ19時で、いつもは仕事をしている時間だ。

何もすることがなく部屋にいるのは、かえって落ち着かないものだ。
浜松のホテルはいわゆるビジネスホテルで大浴場はなかったが、部屋の浴槽は広めで、足を伸ばしてゆったり入れそうだった。
お風呂にお湯をためている間に、スーツや仕事道具を整理する。
ホテルのアメニティの中に入浴剤があったので、浴槽に入浴剤を入れた。湯船につかるとハーブの香りがして、座りっぱなしでむくんだ足がピリピリする。血行が良くなっているのだろうか、入浴剤の成分が効いているのかもしれない。

名古屋へは、東京の会社の支店往査でたずねた。一通り不備なく書類がそろっていることを確認すれば、仕事は完了だ。東京からやってくる我々を待ち構えて、事前にぬかりなく準備をしていたに違いない。責任者の評価に汚点がつかないように、地方にいくほど用意周到に書類が準備されている。問題が発覚して本社に報告されると困るからだ。おかげでほとんどミスは見当たらず、スムーズに作業が進んだ。
今回はいい出張だった。2泊3日あるが、最終日はやることがないので、名古屋城の観光をして帰れるほどだった。

2つか目の夜、上司と一緒に晩御飯を食べた後、行きつけのバーに誘われたが、調べものがあるからと断りホテルに戻った。そして風呂に入って疲れを癒し、パジャマに着替えてベッドにもぐりこんだ。

今回もう夢で青山君に再会するのだろうか。

「ねえ、なんで僕が自殺したか分かった?」

彼の口調は駄々っ子のようだった。今日も私たちは彼の部屋にいたが、前回とは異なり、二等辺三角形のようないびつな形の部屋だった。
部屋の形が変わったのは、私が片山君と会い、少しだけ青山君の死の真相に近づいた証拠のように感じた。

夢の中で、私たちはビールを飲みながら、彼の最近お気に入りのSweatの『A La La La La Long』や、Bob Marleyの『One Love』を口ずさむ。彼のおかげで、有名な曲はだいぶ覚えてしまった。
彼は音楽を聴きながら、煙草を吸っては缶ビールを一口飲むという行為を繰り返していた。

「私にもたばこちょうだい」
「ダメ。体に悪いから。それよりドライブしようか」

私たちは彼の白のセダンに乗りこみドライブにでかけた。
シフトレバーの下のドリンクホルダーには、彼の飲みかけの缶ビールが入っている。
かなり酔いが回っているようだ。左手で私の右手で握りながら、もう片方の手でハンドルを握り器用に運転している。
「片手運転は危ないからやめなよ」
「大丈夫だよ。僕はもう死んでいるから事故は起きない。君は嫌だったら降りてもいいよ」
だがそう言いながらも、一向に車のスピードを落とす気配はない。
これは夢だ。そして彼が言うように、もう死んでいる人が飲酒運転の事故を起こすはずがない。彼の運転に身をゆだねていても大丈夫だろう。

以前もこうやって夜中にドライブに出かけたことがあった。車が一台も走っていない深夜の品川埠頭を、ドライブしたものだ。懐かしい記憶が蘇る。
眠りながら、覚醒しているかのようだった。
そして、その直後、金縛りにあった。私の体におもりが付けられたようで、胸も圧迫されて息苦しいし、体を動かすこともできない。しかも、彼は力を込めて私の手を握ってくる。
「痛い」
目覚めたら夜中の3時だった。ベッドに入ってからまだ3時間しか経っていない。鏡をのぞくと顔はむくんでいて、くっきりとクマができていた。今回もほとんど眠れなかった。

ふと、右腕に違和感を覚えてパジャマをめくった。すると、見覚えのないあざができていた。
「指の跡がついている……」
青山君が夢の中で握っていた場所に、手で握った跡がくっきりと残っていた。体の震えが止まらなかった。間違いない、彼はここにいる。目には見えないけど、そばにいて私のことを見張っているのだ。

第5話 バイセクシャルと三角関係

2泊3日の出張から戻った。東京は名古屋よりも気温が高く、湿度も高い。ねっとりとした湿った空気が、喉の奥にへばりつく。
そして、今が盛りとばかりに蝉が鳴いている。
私は夏が嫌いだ。暑さも、毛穴をふさぐようなじめじめした感じも、頭の奥に響く耳鳴りのような蝉の鳴き声も。そして否応なしに、青山君の死を思い出してしまうことも。

今回の出張は散々だった。ほとんど眠れなかった。全身がけだるくて、帰宅するとシャワーに入る時間も惜しくて、そのまま着替えて布団に入った。翌日は事務所勤務の日だった。昨日よりはまともな顔になっているといいけど。
それにしても、名古屋で見たあの夢はなんだったのだろう。夢の中で彼につかまれた腕のあざは、いまもはっきり残っている。彼のいる世界に引き込まれるところだったのだろうか。
ベッドに横になると、その日は珍しく熟睡した。よほど疲れていたのだろう。

翌日は事務所勤務の日だった。今日の東京は、最高気温35度の猛暑日の予報だった。夏らしく半袖のワンピースを着たかったが、あざが気になり7分袖の洋服を着た。ペパーミントグリーンの夏らしい薄手の洋服で、一見夏らしい雰囲気だったが、この暑さで7分袖を着ている人は誰もいなかった。
汗で洋服が体にへばりつくのを諦めて、事務所に向かった。

夏なので、事務所はいつもよりも人が多かった。みんな、通常は、日中クライアント先に常駐しているのだが、夏の閑散期になると、事務所に人が押し寄せる。事務所はフリーアドレスで、全員が出勤すると席が足りなくなる。遠慮した新人たちが会議室にぎゅうぎゅう詰めに席を陣取っていた。

同期と会うのも久しぶりだった。
「梓、ひさしぶり。相変わらず出張多いの?」
「うん。昨日名古屋から帰ってきたところ」
「なんだか、疲れた顔してる。もうそんなに若くないんだから、夜遅くまで働いちゃだめだよ!」
「ははは、同い年なんだし。お互いに無理できないね。でもありがとう」
「今日はたまに同期で集まって飲みに行こうかって話しているのだけど、梓はどう?」
「せっかくだけど先約があって。夏が終わらないうちにまた誘って」
「了解。そっちも楽しんできてね」
うちの会社は、入社時に新入社員を集めて合宿を行う。課題をグループで解決していくのだが、この協力関係と合宿という特別な雰囲気で、同期の間にかけがえのない絆が生まれる。
同期皆で集まるなんて年に1回あるかないかなのに、機会を逃してしまったことは残念だった。
だが、どうしても外せない予定があった。今日は、青山君のもう一人の親友、田神優斗君と会うのだ。17時半に銀座のイタリアンレストランを予約していた。

田神君と会うのは卒業以来8年ぶりだった。
大学時代は、小柄で瘦せ型でかわいらしい雰囲気だった。お店に入り記憶の中の彼を探したが見つけられなかった。すると向こうから
「おーい、梓、こっちだぞ」
と声をかけられた。見ると二重顎で小太りのおじさんが座っていた。日本人離れした濃い顔のパーツに、当時の面影が見え隠れする。時は確実に人を変えるのだ。一方で、快活に笑うところや、明るい雰囲気はまったく変わっていなかった。
田神君は広告代理店に勤務しているそうだ。このぽっちゃりした体型から察するに、かなり接待や飲み会が多い仕事なのだろう。そして、去年結婚したばかりの新婚さんだった。ひょっとしたら幸せ太りなのかもしれない。
店員が注文を取りにきたので、とりあえずビールと一緒に、生ハムとチーズの盛り合わせなど数品をたのんだ。田神君は挨拶も早々に、声を潜めて話しかけてきた。
「片山から聞いたけど。青山の自殺の理由を知りたいんだって?」
「今さらなのだけど、実はそうなんだ」
親友が20歳という若さで自殺したのだ。10年たっても、何かは記憶に残っているだろう。
「お線香をあげに青山の実家に行ったときに、遺書がないかおばさんに聞いたけど、ないと言ってた。自殺の理由もわからないと言われた」
そうだ、級友みんなでお線香をあげにいったときに、おばさんに遺書の所在について訊いてくれたのは、田神君だった。
「でも俺はほんとはあると思う」
「なんであると思うの?」
「なんとなく隠している感じがしたから。第六感」
たしかに、おばさんの答え方には違和感があった。
「それに、青山の家は片親だから、少なくともおばさんに宛てた1通はあると思う」
「確かに。おばさんには何か残していたかもね。でも1通かな。もしかしたらほかにも遺書があったかもしれないよね」
「付き合っていた人にふられたって悩んでいたからな。彼女宛ての遺書もあったのかもしれない。ちなみに彼女ってお前じゃないの?」
「やだなあ、それは違うよ。確かに仲は良かったけど。ほかに付き合っていた人がいたと思う」
タトゥーのことは知っているだろうか。
「あのさ、青山君の肩のタトゥー見たことある?」
「見たことあるよ。たしか蛇とアルファベッドが彫ってあったよな」
「TK」
「そうだ、よく覚えているな。TKだ」
「あれって誰かのイニシャルだと思わない?」
「なるほど。それが青山を振った彼女のイニシャルかもしれないというわけか」
「そうそう」
「高校のときはタトゥーは入れていなかったはずだから、大学に入ってから彼女ができたんだと思う」
「そうだね。大学生になってから付き合った感じだよね」
「TKってっさ、どっちの並びだと思う? 名前と姓なのかな。それとも、姓と名前なのかな」
「ふつうは名前と姓の順番だよね。私たち英文学専攻なわけだし、姓と名前の順番だと違和感ない?」
「そうすると、語学のクラスでKの苗字の女子は、熊谷と栗原か。下の名前は何だったかな?」
「熊谷由美と、栗原聡子。どっちもTKじゃないね」
「大学のクラスではないとなると、バイト先のやつとか、同じサークルの学生だったかもしれないな」
「バイト先とかサークルになると、まったくわからない。田神君は青山君と同じサークルだったよね」
「家庭教師ボランティア活動ね。あの中にいたかなあ。女子がすごく少なくて、思い当たる子はいないな」
しばらくの沈黙ののち、田神君がちょっと意味深な顔つきで言った。
「ひょっとしたらだけど、男子のイニシャルの可能性もあるよな」
「えっ?」
持っていたジョッキが手から滑り落ちて、テーブルの上に不時着した。
「青山の口調や仕草が、柔らかいというか、女性らしいと思うことがたまにあったから。そっち系なのかなって感じたことがある」
ムクムクと嫌悪感が膨らむ。さっき食べた生ハムが胃の入り口まで逆流している。
「そんなことないんじゃない?」
生ハムの次は、胃酸が上ってくる。もし、青山君に彼氏がいたとなれば、彼はバイセクシャルということになる。私が最初からその事実を知っていたら、おそらく彼を受け入れなかったと思う。
でも、女性らしい一面があったからこそ、なんでも分かり合えて、居心地が良かったのだろうか。
いずれにせよ一連の推測に体が拒否反応を出していた。
「TKのイニシャルがついているのは、俺が知る限り、男性で一人しかいない。可能性は広いほうがいいと思って言うけど、もし誤解だったらごめんな」
そういって、軽く田神君は私に謝る仕草をした。
「小西智弘。イニシャルはTKだ」
「まさか……」
グラスを持っていなくて本当に良かった。私はその名前を嫌というほど聞いたことがある。
「田神君。実は、私と小西は大学時代から付き合っていて、卒業して2年後に結婚したの。小西智弘は私の夫」

長い沈黙が訪れた。
「嘘だろ……。ああ、絶対に俺の勘違いだ。変なこと言ってごめん」
田神君が必死に誤ってくれるのが申し訳なかった。一生懸命考えてくれたのに。
でも仮にほんとうだとしたら、私と、小西と、青山君は三角関係になる。
「私が小西と付き合い始めたのは3年生になってすぐのころだった。青山君が3年生のときに振られたと言ってたのと辻褄が合うね」
私はすっかり気の抜けたサワーのジョッキを一気にあおり、田神君は日本酒のぐい飲みを一気にあおった。
「小西が梓の旦那だって知らなかったから。変なこと言ってごめん」
体は拒否反応を示しているが、頭は妙に冷静だった。そうか。智弘も青山君もバイセクシャルだったのかもしれない。2人が付き合うことで三角関係になることを知り、しかも智弘から別れを切り出されて、青山君は苦しんでいたのだろう。智弘が青山君を振って、私と付き合うことにしたのが自殺の原因だったのか。
すべての辻褄があった。真実なのかもしないが、にわかには信じられない話だった。

そういえば、夢の中に出てきた部屋は奇妙な三角形の形をしていた。
あの部屋は、私たちの三角関係を示唆していたのかもしれない。
ひどく居心地が悪くて、バランス感覚がおかしくなるような、不快な部屋。
青山君がヒントを出してくれていたんだ。
あの部屋は、私と青山君と智弘の三角関係を示していたのだ。
その真実を私に知らせるために、夢で問答をしかけてきた。

おそらく一番事情を知らなかったのは私だった。もし知っていたなら、智弘と付き合わなかったかもしれない。
「そうだね、青山君が話してくれたとしても、きっと私は信じなかったと思う。だから謎だけ出して黙っていたんだね」
独り言のつもりが、つい声に出していってしまった。
「何か言った?」
「ううん、なんでもない」

この仮説が正しいかどうかは、智弘に聞けば解決する話だった。
だが、もしかしたら勘違いの可能性も残っている。
智弘に直接聞くべきかどうか迷いが生じた。私が青山君のセフレだったことを彼は知ているのだろうか。私と付き合ってから、智弘は青山君を振り、関係をやめたということなのだろうか。
私と青山君のことは知っているのだろうか。まだ知らないとすれば、一生知らなくてもいい事実なのことに間違いははかった。
次は智弘と話をする番だ。

第5話 遺書

田神君は何度も私に謝り、励ましてくれた。私はしばらく物思いにふけっていて、田神君の声が耳に入ってこなかった。
「家まで送らなくて平気か?」
「うん、タクシー拾うから大丈夫」
「なら、俺がタクシーつかまえるよ。ここで待っていて」
そう言うと、彼は店を出ていった。
彼は、根っからの優しい人だ。よく気も付く。こういうときはありがたい。

田神君が捕まえてくれたタクシーに乗り、なんとか自宅まで戻ったが、どうやって自宅にたどり着いたのか記憶がない。
ただ、家で智弘に会ったらどんな顔をすればよいのだろうということばかり考えていた。
そして帰ってみて気が付いたのだが、明後日まで智弘は出張で不在だった。智弘との対面を予想して緊張感で張り詰めていたのだが、すっかり拍子抜けしてソファーに崩れ落ちた。
さっきの質問を智弘に投げかける覚悟はまだできていなかった。
「いなくてよかった」
今のところは、それが率直な私の気持ちだ。
心の整理をして、近いうちに彼と話す必要があると思ったが、その前にもう少し確信が欲しい。
そして、遺書のことを思い出した。おばさんに宛てたもの以外にもう1通、大切な人に宛てた遺書もあったかもしれないという推測。この推測があたっているのなら、智弘は遺書を持っていることになる。遺書があったら、彼は今も大切に保管しているだろう。彼の部屋のどこかに。

私はふらふらとした足取りで、智弘の部屋に入った。よく整理整頓された部屋で、いつもながら感心する。引き出しには鍵がかかっていなかったので、申し訳なく思いつつも、引き出しの中をのぞかせてもらった。
封筒の束のようなものが見つかった。大切な友人からもらった手紙を入れた、文箱。
手が震える。もしかしたらこの中に遺書があるかもしれない。ひとつひとつ、貴重品を触るように慎重に確かめた、
だが、青山君からのものはなかった。
ほかの引き出しもみたが、手紙らしきものはなかった。
とりあえず一番可能性が高そうな机の中はすべて調べたが、遺書はなかった。
あと、探すとすればクローゼットの中ぐらいだ。
今後も結婚生活を続けるために、2人にとって解決しなければならないことなのだと自分にいい気かせて、クローゼットの中を探った。いくつか収納ケースがあり、念のために全部出してみたが、中に手紙らしきものは入っていなかった。
あと残すは備え付けのチェストだ。いつも各自で衣替えをしているので、このチェストも開けるのは初めてだった。
一番下の引き出しに、新婚旅行で行った海外旅行の思い出の品と一緒に、手紙の束が入っていた。
私は、丁寧に、1枚ずつ差出人を確認する。
すると、1通だけ「智弘へ」と書かれた、差出人不明の封筒が出てきた。
思わず、手が震えて床に落としてしまい、慌てて拾う。
人の手紙を読むことが悪趣味なのはわかっている。だけど、本当のことが知りたい気持ちが上回った。
水色の封筒の中から真っ白な便箋が出てきた。

『愛する智弘へ
最初にサークルで出会った時のことを覚えている?
まるで運命に引き寄せられるように、僕と智弘は愛し合ったよね。
2年間、僕のこと好きでいてくれてありがとう。
君から、結婚したい女性ができたから、もう会えないと言われたときは、かなりショックをうけたよ。しかも、その相手が梓と聞いて、さらに驚いた。僕と彼女はセフレで、とても気の合う大切な友人だったから。
僕は愛する人を2人同時に失うことになるんだね。
できれば一生、智弘と一緒にいたかったけど、相手が梓なら諦めもつく。
僕はこれから旅立ちます。そこは1人でしかいけない場所で、2度と智弘に会うこともなくなる。
最後にもう一度一緒にいたかったけど、これでお別れです。
短い間だったけど、僕のことを好きになってくれて、本当にありがとう。
幸せな時間をくれてありがとう。
梓のことを幸せにしてあげてください。
いつまでも君の幸せを祈っています。
さよなら。
青山篤史』

体の力が抜けて、床に座り込んだ。
智弘はすべてを知って、私との結婚を選んだのだ。
そして、手紙は辛い内容だったが、青山君はおそらく最後まで優しい笑顔をしていたのだろう。とめどなく涙があふれた。
彼は、自分が死ぬ間際まで、私と智弘の幸せを願ってくれていた。そして智弘と私のことを最後まで、好きでいてくれた。
自殺の理由は、明らかになった。
智弘に振られたことが原因なのだ。しかも相手が私だったことも少しは原因になっているかもしれない。
今日、青山君の遺書を見て、真実を知ることができて良かった。
この10年間、なぜ死んでしまったのかと考えるたび、涙が溢れていたから。これからは空想ではなく、真実を見ながら前を向いて進んでいけると思った。
そして最後に、あなたの辛い気持ちに気付いてあげられなくてごめんね、青山君。

そしておばさんのことが思い浮かんだ。
智弘宛に遺書があったということは、おばさん宛ての遺書もあったのだろう。今すぐにでもおばさんに会って、彼が亡くなった理由について話し、慰めてあげたいと思った。

「ようやく真実にたどり着いたよ、青山君。恨んでも良かったのに、あなたは幸せでいてほしいと願ってくれた。ありがとう。
いまさらだけど、あなたが大切に思うおばさんの力になりたい。私にできるかな」

今日は智弘が帰ってくるこものないので、遺書を枕元に置いて寝ることにした。
もし願いが叶うなら、もう一度夢の中に出てきて、私にほしい。
青山君が出した宿題の答え合わせをするために。

第6話 再会そして別れ

その晩、青山君は夢の中に出てきた。
大学時代に住んでいた長方形の部屋の片隅で、たばこをくゆらせていた。

「遺書を見つけてくれてありがとう。驚かせてごめん。でも真実を知ってくれてありがとう」
「何も知らずに私たちだけ幸せになってしまって、ほんとにごめんね」
「いいんだ。本当は梓にも真実を伝えようとして、梓にあてた遺書もあったのだけど、それは母さんが隠してしまって、君の手には渡らなかったみたいだ」
「今度おばさんに会ったら聞いてみるよ。私は本当に10年間ずっとあなたの死について考えていたし、忘れたことはなかった。辛い真実でも知らないよりましだから、ここまで導いてくれて感謝している。ありがとう。
あと、おばさんのことは私にまかせて。もし許してもらえるなら、私がおばさんのそばにいるから」
彼はふっと微笑みを浮かべると、そのまま消えていった。
彼は成仏したのだと悟った。

翌日、会社に電話して、夏風邪なので休ませてほしいと伝えた。
電話に応対したフロアスタッフから、「お大事にしてください」と事務的な返事が返ってきた。

その後私は青山君の実家に電話をした。まだあの家におばさんひとりで住んでいるのだろうか。電話は通じるだろうか。
長くコール音が響いた。10コール数えて電話を切った。誰も出ない。
もしかしたら、もうあの家には誰も住んでいないのかもしれないと思った。
だが、一度行ってこの目で確かめよう。そしてもしおばさんに会えたら、青山君が書いた私宛の遺書を受け取ってこよう。
帰りにお墓参りもついでにしようと思ったので、黒の半そでのワンピースを着て彼の実家に向かった。

私の家から彼の家までは片道1時間半ほどかかった。駅を降りてから、家までの行き方を忘れてしまい、迷子になってしまったからだ。
すでにワンピースの中は汗でベタベタになっていた。
そして、ようやく見覚えのある彼の実家にたどり着いた。良かった、表札は変わっていない。まだここに住んでいる。
中庭を覗いた。以前は、トマト、きゅうり、那須などあらゆる野菜を手作りしていたが、畑があった場所は草むらになっていた。
玄関に戻り、チャイムを鳴らした。長い沈黙があったのち、ドアが開いた。青山君のおばさんだった。
「ご無沙汰しています。梓です」
「ああ、本当に驚いた。でもひさしぶりに会えてうれしい、よく来てくれたね。汚くしているけど、良かったらあがって」
謙遜ではなく、家は足の踏み場もなく物が置かれていた。以前玄関先にあった梅を漬けた瓶はなくなっていた。
「さあ、中までどうぞ」
「突然すみません。お邪魔します」
そう言えば、てぶらで来てしまった。朝早くに家を出たし、電話が通じなかったので、もしかしたら引っ越しして会えないのではないかと考えていたためだ。
お仏壇にお供えするお菓子を買ってくるべきだった。
「もう何年ぶりになるかしらね」
「そうですね、あれからちょうど10年たちます。青山君が亡くなったのも夏でしたね」
「そうね。……私、実は梓ちゃんに謝らないといけないことがあるの。ひょっとして今日はそのために来たんじゃないかなと思って」
「謝らないといけないことって何ですか?」
「ちょっと待ってね」
おばさんは仏壇の引き出しをあけて、封筒を持ってきた。

『梓へ』

そう書かれた封筒だった。
「みんなが来てくれた時に、遺書はなかったって言ったけど、あのときはまだ気持ちの整理がついてなくて。もう少し手元に置いておきたかったの。
1年後の命日に、小西君がひとりでお参りにきてくれたときに、小西君には彼宛ての遺書を渡したの。
それで、梓ちゃんにも早く渡さなければと思っていたのだけど連絡先が分からなくて、気づいたら10年もたってしまった。不義理してしまってごめんなさいね」
「とんでもない。10年も顔出しせずに、不義理をしていたのは私の方です。ほんとうにすみませんでした」
私は10年前に書かれた、青山君の遺言書を受け取った。
まだ未開封のままだった。
「家に帰ってからゆっくり読ませてもらいます。その後おばさんはどうされていたんですか?」
「あの当時が懐かしい。若い学生さんたちが、大勢うちに集まって食事にきてくれたでしょ。でも今は誰も来なくなってしまった。良かったら、またみんなで集まって、篤史の思い出話をしてくれたら供養になっていいな。お料理も今は私一人分だけだから、作り甲斐もないし、食欲もわかなくて。人が来ないから掃除もしないままで、きづいたらこの有様よ」
そういって寂しげに笑った。
「わかりました。連絡がつく限り、大学の友達に声をかけて、みんなで遊びに来させてもらいます」
「ありがとう」
「お線香あげさせてもらってもいいですか?」
「ああ、そうね。どうぞよろしくお願いします」
私は仏壇の中の青山君に向かって話しかける。きっと、お母さんのことが気になって、私の夢の中に出てきたんだね。
任せて。これからは私が足しげく様子を見に来るから。あと、あなたが書いてくれた遺書も確かに受け取りました。すべてはっきりしたので、安心してください。
「お邪魔しました。私このあとお墓参りに行こうと思うのですが、良かったらおばさんも一緒にいかがですか」
「今月はまだ行ってなかったから、一緒に行かせてもらうわ。ちょっと支度してくるから待っていてね」
家の中の空気が良くなかったので、喘息がでたのか息苦しかった。おばさんが身支度を整えると、せかすように家を出てお寺に向かった。
「そういえば、梓ちゃんと小西君結婚したの?」
「そうなんです。大学を卒業してから、たまたま同じ会計事務所に勤めることになって。勤めてしばらくしてから入籍しました」
「おめでとう。でも、今さらだけど、私は篤史と梓ちゃんが結婚してくれたらいいな、こんな人がお嫁さんに来てくれたらいいなって思っていたの。
なんて余計な話をしてごめんなさいね」
「いえ」
おばさんの気持ちに薄々気づいていたのに応えられなくてごめんなさい。そして、篤史が一緒にいたかったのは、私ではなくて智弘なのだろう。
きっとおばさんは、青山君の本命が男性であったことを知らないのだろう。
今まで知らずに来たのだ。今ここで私が事実を打ち明けることもない。
知らない幸せもあると思った。
「また来ます。次はたくさん友達を誘って、事前に電話をしてきます」
「ありがとう。ひさしぶりに会えて、遺書も渡せてよかった。気を付けて帰ってね」
「はい。おばさんもお元気で」

お寺から自宅までは、地下鉄1本で乗り継ぎなしで帰れる。その間、カバンのなかにしまった遺書が気になって仕方なかった。
帰宅してすぐに自分の部屋に閉じこもり、青山君からの10年ぶりの遺書を開封する。

『大好きな梓へ
今まで楽しい時間をありがとう。君と一緒にいるときは、現実の世界とつながっていられる感じがした。君がいないときは、この世ではない世界を彷徨っているような、ふわふわした気もちでいたから。
あずさがいたから、大学生活も楽しかったし、ドライブやハイキングや、普通の大学生がするようなデートもできた。
本当に感謝している。
たくさん付き合ってくれてありがとう。
本当は、ずっと梓と智弘と一緒にいたかったけど、君たちは2人で生きていくことを選んだ。
君たちのいない世の中に、僕はもう未練はない。この世界に僕をつなぎとめていたものはなくなるのだから。
次生まれ変わってくるときは、また3人再会して、家族みたいに仲良く暮らせるといいな。
さよなら、愛しい梓。
篤史より』

1行目から涙が溢れ出て、前が見えない。
タオルで涙をぬぐいながら、なんとか続きを読む。
青山君がこんなに愛してくれていたのに、自分だけ幸せになってごめんね。
しばらく目を閉じて、彼の姿を思い浮かべる。
その姿は、やはりいつものように穏やかに笑っていた。
私は、青山君の遺書を抱きしめる。
「はじめて言うよ。私も青山君のこと愛していたよ」

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