宮沢賢治『農民芸術概論綱要』に思う(その1)
宮沢賢治の『農民芸術概論綱要』を改めて読んで、とても感銘を受けました。
今日はそこから抜粋して書きます。[・・・]は文章を省いている部分です。
以前は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」だけ気にしていましたが、残りの文章もすごいことに今さらながらに気づきました。
「自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する」
これは前々から私も感じていました。今まさに「自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する」の段階に向かっています。
私たちは粘菌のようなものかもしれません。肉体が個体の境界のように感じていますが、意識、精神という面では自他の境界は曖昧です。これらは物質的な結びつきではなく、「場」を形成します。
バラバラだと思っていたものが一つの生命体のように動き、またそのうち離散する。生命の進化の長い長い過程の中に私たちはいます。
私たちは長い間、エゴ意識が中心の時代にいました。それが今、だいぶん際にきており、そこからまた新たな段階に進むか、いったんリセットされるか、というところになってきています。リセットというよりは、次の段階(世界)に進む人たちと、エゴの世界に止まる人たちとが分かれるという感じでしょうか。
そんなふうに書くとスピっぽいですが、宮沢賢治の言葉でいう「個人から集団社会宇宙へ進化」するか否かということです。
「新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある」
エゴ意識は自分中心です。自分からの視点で物事を見ます。なので分離の世界です。「私がいて他者がいる」という。なので、自分が消滅したり、変化したり、存在を認められなかったり、ということを恐れます。行動が不安と恐れから起こる場合が多いです。
いつも心の中には「全体から分離した自分」という欠けた感があります。言い換えれば、胎児や乳児の時に感じていたであろう世界との一体感から飛び出してしまった家出人の感覚です。それゆえに、全体、あるいは完全なるものへの憧れと愛慕、それに対するコンプレックスが生じます。
それを自分なりに乗り越え、昇華していくのがエゴのレッスンと言えます。
それを超えてしまえば、あまり自分に執着しなくなります。分離した個としての自分よりも、「全体(宇宙)とつながった」または「一部である自分」を感じるからです。
この肉体を持つ一人の人間ではなく、宇宙全体と融和した有機体になります。宇宙という体を持ついろんな意識の集合体としての生命体です。
個であり、全体である意識。
人体で言えば、「これが私」と思っていた一つの細胞が、他の細胞や機能に気づき、自分は人体を構成する一つの細胞だったのだと気づくようなものです。
その時、「自分はなんてとるに足らない存在なんだろう」と落ち込むのではなく、すごく大きなシステムの一部を担っているのだと自分の役割に目覚めるか?は大事なポイントです。これはいわゆる天命とかミッションと言われるものになります。
「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである」
銀河系や宇宙全体を意識しながら自分の行動が決まっていくという流れ。
エゴ意識は「自分が〜」というところが先にきます。自分の個人的なエゴの欲望や恐れよりも銀河系意識が優先されるには、エゴにふりまわされない強さが必要になります。
コーチングでは「現状の外にゴール設定をする」ということが基本となります。
この宮沢賢治の心構えも「現状の外のゴール」といっていいと思います。
「銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行く」ということがどういうことかに正しい答えはないし、具体的に何をすればいいかも、それを求める人それぞれが自分で見つけていかねばなりません。
漠然としすぎていると感じたとしても、これを日常に落とし込んで自分ができることを日々探究することはできます。
「われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」
「世界のまことの幸福」とはなんでしょうか?
「索ねよう」は「たずねよう」と読むようです。
「求道すでに道である」はかっこいい言葉です。
求めることはすでに道である。
結果や成果、成功、正しい答えを得ることが重要ではなく、問い続けることが大事です。
前回の『アメリカン・ユートピア』の記事で言いたかっったことは「世界のまことの幸福」についてだったと言えます。私たちはそれを体現するために今ここにいるのだ、と。
その体現されるものが美と言えるか?
ここも大事なポイントです。
絵画や音楽などすばらしいアート作品を作ることが「美を創る」ことではありません。もちろんそこにも美は存在しますが、彼はもっと大きな意味での美を言っています。
実生活そのものが美となり、芸術となりうる。
そういう話なのだと思います。
世界そのもの、生活そのものが美として現れる、そんな考え方や生き方。
生きること自体が「美を創る」ことであり、生き方や存在が美しくあること。
そういう生き方、ありようが私たちの目指すところではなかろうか、と。
そのように生きることを願うのであれば、「そういう生き方とはどんな生き方であろうか?」「自分にとって何をすることがそれを体現することになるだろうか?」
ということを常に考えて、毎日の生活をクリエイティブに過ごし、日常的に美を生み出す精神を養い、実践することになります。
茶道や生花、俳句はそれを体現したものと言えます。
長くなったので、次回に続きます。