弱肉強食の世界から慈愛の世界へ
『縄文の思想』(瀬川拓郎著)にこんなことが書いてありました。
アイヌのイオマンテ(クマ祭り)では、クマに仮装した神が集落を訪れ(捕獲され)、一定期間集落でもてなされ(飼育され)たのち、肉と毛皮を与えて神の国へ帰り(殺され)ます。そもそもアイヌの世界観では、猟で得た獣はすべて、人間にみずからを与えるため山からやってきた喜ばしい来訪神であり、アイヌの歓待をうけて山中へ帰っていく、往還する存在なのです。
どこかの漁村で、魚だったかイカだったか鯨だったかなんだったか忘れましたが、「たくさん獲れますように」とその生き物を祀って祭礼をするところがあると本で読んだことあります。
自分らが食べる生き物に向かって「大漁をもたらしてください」と祈るのです。日本人のこの思考は理解できないとあったので、著者は西洋人だったのかもしれません。
イオマンテの話はクマを勝手に神様扱いにして飼い育てて殺すのだから、見方によっては「ひどいやつだ、残酷だ」となります。また人間都合の虫のいい話だよねとも言えます。日本にはこういう話は少なくないようです。
以前イギリスにホームステイしていた頃、「日本人はイルカや鯨を食べる。残酷だ」と言われたことがありました。「あなた方だって牛や豚などの肉を食べるじゃないか」と私が言うと、「家畜は神様が人間に食料としてもたらしてくれたものだからいいのだ」と言われました。それを聞いて私は「それって差別、偏見じゃないの?」と思ったのを覚えています。
この世界は弱肉強食なのか?
世界を弱肉強食の世界ととらえると、強いものが弱いものを食する、弱いものは強いものに食べられるという世界観になります。強いものが勝ち、弱いものが負けるという競争社会、ピラミッド構造ですね。
この世界は食べつ食べられつですから、弱肉強食として世界を見ている人は多いでしょう。そうなると、自分は食べられまい、殺されまい、あるいは、食べる側に立ってやる、となって、攻撃的/防御的になってしまいます。味方と敵に分かれます。弱ければやられます。
しかし本当にこの世界はそうなのでしょうか?
『猟で得た獣はすべて、人間にみずからを与えるため山からやってきた喜ばしい来訪神』からは逆の価値観が見出せます。つまり、食される生き物は自ら「食べてください」とやってきてくれる神なのだ、と。
こうなると弱肉強食の競争社会がガラリと姿を変えます。私たちが生きているのは、あらゆるものが「食べてください」「使ってください」と私たちの元にやってきてくれていると解釈できます。そうなるとありがたいという気持ちが湧き上がります。
ありとあらゆるものがあなたのためにあなたのもとにやってきている恩恵なのです。なんとありがたいことでしょう。神格化したくもなります。「もっとください」と言うのはおこがましいぐらいです。
なぜ縄文時代には戦争がなかったのか?
縄文時代がこの考えに基づいていたとしたら、戦争がなかったというのもうなづけます。奪い合う必要がないですから。感謝と褒め称える気持ちしかありません。そういう気持ちをもっているのであれば、見知らぬ来訪者があれば歓待するでしょう。
だから弱肉強食の意識を持った部族が襲ってきたら一気にやられてしまいかねません。インディオがそうだったように。そこは気をつけなければなりません。
「神様が家畜を与えてくれた」というのと考えが似てそうですが、ここには「神」の存在が介在しています。「神がもたらしてくれた」ので、感謝は神に対してなされます。食物となる生き物に対してではありません。
ここに上下構造ができます。食べ物を与えてくれる神がいる、と。
しかし食物となる生き物が自ら食べられるためにやってきてくれるとなると、感謝はダイレクトにその生き物に向かいます。あるいは自然界が神格化されたものになるかもしれません。食べられてしまうその生き物が神的な存在として扱われます。
神を食べる!?
だから食前食後に「いただきます」「ごちそうさま」と手を合わせるようになったのでしょうか。日本は何でもかんでも神にするお国柄ですが、いただく食べ物に神が宿っていると見るならば、神を食べることになります。
神を取り込んだ、神が宿る自分になるなら悪いことはできないですね。日本人が基本、従順で善良なのはそういうところにも起源があるかもしれません。勝手な私の妄想ですが。
食べられてしまう生き物にしてみれば同じことだから、捕食者が都合良く解釈したきれいごとだ、誰が食べられたくてやってくるか!と思う人もいるかと思います。ここではそれを論議したいわけでありません。
人の意識が変わるだけで世界はガラリと模様替えするという話です。物事のとらえ方が変わるだけで弱肉強食の世界から慈愛の世界に一変するのですから。
見方を変えると世界は一変する
弱肉強食の世界で生きていると思うか、慈愛の世界に生きていると思うかで、その人の価値観や思考、行動が変わります。慈愛の世界に生きる人が増えれば、世界も変わります。
今、世の中で起きていることのほとんどは弱肉強食観に基づいています。弱肉強食の歴史の中にずっといると、過去のやったやられたをずっと引きずります。これではいつまで経っても勝ち負けの世界です。
あなたはどちらの世界に住みたいですか?
私は慈愛の世界が好きなので、まずは自分の思いをそちらに合わせていきたいと思います。
自分の中の獣を手なづけよう
余談ですが、今、マンガやアニメ、映画などで、人間が鬼、ゾンビ、吸血鬼、ウイルス感染者などになる話が溢れています。この流行には、刺激を求める傾向と、光と闇の構造のバランスが崩れたことと、自然破壊や酒池肉林、邪悪に対する罪悪感や恐怖があるのかなと見ています。自分たちの中に神を見ず、邪を見ると、そうなちゃうのかなと思います。
とはいえ、人間は悪だという罪悪感があるとしたら、それは善の裏返しになります。本来はそうではないという思いがあるわけですから。
また、男性性が極端に走ると攻撃性が強調されます。自分ではどうしようもない攻撃性が現れると、「自分の中の獣、化物」から「自分が化け物になる」という感覚になるかと思います。
自分の内側に神を宿すか、野蛮な獣を宿すか。
日本の神は荒ぶる神にもなれば、恩恵を与える神にもなります。どちらの側面もあります。私たち人間も両方あっていいと思います。神は抽象度が高く、獣は抽象度が低く目の前の欲求を求める、と考えると、荒ぶる神を宿すにしても抽象度高くありたいですね。