明治オトコ、大正オンナの【妬み・嫉妬論】
(2020.9.25 追記)
好評につき、この記事を以下の要領で
価格変更させていただきます。
・10/1より → 250円
・11/1より → 300円
私には、勝手に「家訓」に殿堂入りさせた
大切な、忘れられない言葉がいくつかあります。
今日は、祖父母との思い出でもあり
私の「ココロの知恵袋」的存在であり続けている
とある言葉について書いてみたいと思います。。。
*
以前にも書いたかもしれませんが、
私の両親は共働きだったので
私はいわゆる「カギっ子」でした。
祖父母と叔母が3人で
すぐ近くに住んでいたこともあり
幼稚園時代、そして小学生になってからも
放課後は祖父母宅に帰宅するか
祖父が私の家のカギを開けて
私、弟、妹に
おやつを用意して待ってくれているか、のどちらかでした。
ちなみに、歯科技工士だった祖父は
私が生まれる頃には仕事をリタイアし
今でいう「イクジィ(爺)」のパイオニア(?)とも言えるほど
孫である私たちを
本当に可愛がってくれた人でした。
当時、小学校教諭だった母曰く、
「おじいちゃん(母にとっては義父)はあの時代、
ホンマに珍しい、女にとって有難い、理解のある男の人やった。
おじいちゃんがいてくれへんかったら
仕事なんて絶対できひんかったわ・・・(^-^; 」と。
祖父が亡くなって23年。
家事も育児もカンペキにこなす
「スーパーおじいちゃん」だった祖父を
そう懐かしみながら、仏壇にお供えをする
うちの母です。。。
そして、そんな祖父の理解とバックアップを受けながら
祖母は現役の看護師さんとして
病院でバリバリ仕事を頑張る
キャリアウーマンでした。
情に厚く、優しいけれど頑固で、
とっても負けん気の強い、
まさに
「ザ・大正オンナ」だった祖母。
日曜日の朝から出勤、という日は
ドライブがてら、父と一緒に
病院までよく見送りに行ったものです・・・
(^0^)懐かしい思い出
そして叔母は、心に病を抱えていましたが
手先がとても器用なクリエイティブな人で
誰よりも「ありがとう」の言葉を忘れず
一緒に「ぬり絵」をすることで
私に色の楽しさを教えてくれた
最初の人でした。。。
こんな祖父母と叔母が傍にいてくれたおかげで
とても有難いことに
私は幼い頃から、両親がどんなに忙しくても
「親に構ってもらえなくて寂しい」とか
そう思った記憶が全くありません。
(また、心を開ける友達がいてくれたことも
大きかったと思います)
幼稚園や学校で その日あったこと、
例えば「〇〇ちゃんと遊んで楽しかった」などの
共有したい気持ちや
「▲▲さんから意地悪なことを言われた」など
吐き出して、どうにかしたい
悲しい気持ちだったり
悔しい気持ち・・・などを受け止めてくれる人が
家に当たり前にいてくれた。
振り返ると、
「自分は何と恵まれた子供時代を過ごせたのだろう」と
思います。
どんな時も、私の話に耳を傾けてくれて
肯定的な言葉で返してくれる祖父母でした。
でも
ひとつだけ、
私にとっては「期待外れ」にも似た
一瞬「びっくり」だった言葉がありました。
それは小5のある日。
学校で、(私にとっては)どう考えても理不尽で
お門違いな「妬みの言葉」を
クラスメイトにぶつけられた時のこと。
事の次第と悔しすぎる思いを
半分泣きながら
祖父母に打ち明けた際、
祖母の口から とても静かに返ってきた言葉を
私は今も忘れることができません。
「そら悔しかったやろな。
そやけどな、よう覚えとき。
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