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書き切るペン供養
書き切る、というのと書けなくなるというのの違いについて。
これもまた個人的な感覚でしかないのですが、ボールペンについて、書きまくってインクを消費して書けなくなるのと、放置しているうちにいつの間にかもう書けなくなるというのとは天地ほど違う、という感覚があります。今回は当然前者の、書き切ってなくなってしまう、というのを目指します。
私の大学受験は共通一次試験というとても懐かしいシステムの初回にあたりました。高校一年の冬に学校で説明会が開かれたはず。とにかく私たちの代から受験科目がやたら多くなるらしいという事だけが脳に貼りつきました。
どうする。大学には行きたいけど経済的にもうちは私立なんて行けない。浪人も許してもらえそうにない。自分が思考能力を必要と科目にはとても弱いことはよくわかっている。
これはもう徹底的に暗記して頭に詰め込んで点数を稼ぐしかないと。
私には姉がいるのですが、彼女は世界史教科書の一字一句徹底暗記というとんでもない努力のできる人だったのですね。その彼女が愛用しているのが赤のボールペンでした。レポート用紙に覚えるべき言葉をかきまくっておぼえる。その真っ赤になって文字の判別しづらくなっている紙の記憶は今も鮮やかです。
私もそれに倣うことにしました。英単語から世界史の用語からとにかくやたらに紙を真っ赤に。手も赤くなってしまうわけですが。たしかにこれなら低モチベーションでも勉強してる感はあるし、なんとか覚えることはできる。
今思えばはるかに効率的で将来役に立つようなやり方もあったはずですが。
その時に覚えたものがもう一つあったのでした。それが「書きまくってボールペンを使い切ることのすがすがしいほどの快感」。インクが空になったボールペンたちを並べる誇らしさ。
久しく感じたことのないこれを、今回は感じたい。
すると、このペン供養では、「書きまくる」ことが自動の感覚まで高まっている必要がありそうです。しかしもともと自分のクリエイト人生そのものを振り返って救おうという企画でもありますから、やけくそで書いてしまっては意味がない。そこに工夫が求められる。
子供のころのようなあふれるクリエイティビティを再び喚起できるかどうか。
悩むより先に「できる」と規定してみます。息子が教えてくれた、こういう時よくやるやり方で、周囲に色々見えて来るのを期待します。
いま何となく浮かぶイメージが2つあります。びっしり埋まりまくっているランダムな模様群。もうひとつは原っぱを埋める花たちです。