げいじゅつへのぼうとく
やっぱり絵を見るなら美術館だな、と改めて思ったりする。今から書くのはすっごく偏っていて、簡単に反論の言葉が思いついてしまうような私の頭の中です。
やっぱり美術は一般化してはいけない。大衆に迎合してはいけない。環境には恵まれたのに本人がどうしようもないから普通の生活が送れない、又はどうしようもない環境の中歪められて普通ではいられなくなった人間がどうにか生み出す社会的な産物として、芸術、もとい美術はあるべきなんだ。
人間、生きているうちに花を咲かせる。大輪の見目麗しい花を咲かすものもあれば、道端に咲く小さく地味な花を咲かすものもある。そこに優劣こそあれど、不要なものはない。その花の形こそその人が生きた証であり、その人自身でもある。
しかし、咲かせられない者もいる。咲くために必要なものが与えられず、そのまま枯れて死んでいく人間も多くいる。
それを無理やり咲かせたらどうなるか。また、枯れたものを花だと言い張ったらどうなるか。
奇形の大輪は、時に誰かを狂わせる。それが芸術である、べき。
奇形の花が身を削って産んだ種、又はその花自体は、物珍しく鑑賞される。分析される。一般は理解しようとする。真の理解には届かないことを、頭のいい人が悟る。その途端、それは人を狂わせる呪物ではなく、ただの物品となる。
奇形の花含め、「それ自体」を理解しようとするからいけないのだ。作品には思想があり、それを知るための手がかりとしてのモノ、ヒトであるべきなのに、そのモノ、ヒト自体に過剰な意味を持たせて、それに値をつけ金額として価値が保証されてしまう。
裏として紹介される技術的な絵画への観点は大概作者が意図して描いた表の意味だ。真の裏とは、書こうと思わずともつい滲むものである。作者の主観である。しかし作者以外の人間は、作者の主観という目を手に入れることは能わない。限りなく主観に近い客観でしか、ものを見られない。
ああ、何が言いたかったのかわからなくなってしまったけれど、とにかくこれは忘れないための備忘録で、感情を保存しておくための写真のようなもの。
形ないものは目に映らないから、こう残しておく。
いやー、怒りと失望に任せて書いた文章は読んでらんないね!