不変
九月に入ったと言うのに夏休みだから忘れていたけれど、真昼間に食糧調達のために外出したら普通に制服姿の高校生がいて、半登校拒否だったあの頃マクドの窓から見た景色を思い出してしまって、死にたくなった。
そうなんだよな、私は大学生の夏休みを謳歌しているつもりでいるけれど、高校生から見たら仕事もせず昼間から部屋着で散歩するニートの大人にしか見えないんだよな。
大学の課題を終わらせてからというもの、集中力というのが終わってきている。
集中しようとしても文字が逃げていく感覚がある、この記事はリハビリです、思ったことをつらつら書くだけで、別に何かあったわけでもない。強いて言うなら何もなかった。
自分のことを信頼できる語り手として置いていない節がある。
だから、物語の展開がおかしかったら私の解釈が間違っているかもしれないとまず思うし、論理に自信はあるけどその論理を支える前提に自信はない。
自己肯定感が低いのとは、また感覚的に違うように思う。いや、多分本質は自己肯定感と生まれ持った捻くれた素質と環境にあるんだろうけど。
ただ、私の捻くれ方を言語化すると上記の言葉になるんだろう。「私に納得されてしまうくらいの論理を振りかざすあなたは間違っている」という卑屈なのか傲慢なのか分からない捻れ方。
だから真っ向から「そうは言っても私が正しい、理屈としては理解したけど納得はしていない」という態度で来られると本当に嬉しくなる。
柔軟に添うような相性の良さではなく、パズルのピースが嵌るような相性の良さ。
それがいいのか悪いのかは置いておいて、ただ確実に言えるのは、普通ならうまくいくはずがないってこと。
歌い方を変えたいと最近本当によく思う。私は、とある人の歌い方を真似るように歌っている。
かつてその人が持つスター性のようなものに当てられるような形で私はその人をとても尊敬していたのだけれど、その人はとあるきっかけで私のところまで落ちてしまった。本当に、創作意欲以外の欲は汚いね。
だた、最近昔友達(だった人)に撮られた、私が歌っているカラオケの映像を見ると、その時とずいぶん歌い方が変わったなあと思った。
その映像が高校一年生の時で、家でなんとなく弾き語りをしている時の動画の音声と聞き比べると、もちろん純粋に上手くなったのもあるけれど、少しずつ声の出し方や響かせ方が違っていて、技術的なあれそれとは違う何かが変わっていた。
あぁ、私はもうとっくに、あなたの一部を取り込んで自分のものにしていたんだな。
人はそうありたいと思った時にはもうそれになっているなんて言説があるけれど、しかしその人がなっているのは少し歪んだ「それ」で、理想の「それ」とは程遠い。本当の「それ」になりたかったら、歪んだ「それ」を一旦全て捨てなければいけなくて、それは己を殺すことでもある。
それが出来れば「それ」になることはそこまで難しいことではないのだろう、けれど「それ」になろうとして歪み取り込んだ「それ」に救われた人間だっているわけで。
完璧に「それ」になるということは、かつて救った誰かを失望させることと同義になる。
という言い訳をして、私は不変。
流される様に変わり続けるのも、変わり続けることに身を委ねるという一種の不変で、はたと気づいた時には置いていかれているものだよ。