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雨とカプチーノを聴きたい気分の日
歌詞が沁みるとかそういうわけではなく、普通にこれくらいの曲調の曲しか聞けない。
ローテンポの曲がいいっていうわけでもないらしく、クラシックみたいな分厚い音もちょっとしんどかった。でも音が少なすぎても物足りなかったので、雨とカプチーノを聞いている。
そうやって行き帰りの電車で聴いてると、なんとなく今まであんまりカプチーノを飲んだことなかったな、そもそもカフェラテとカプチーノの違いあんま分かってないなってことに気づき、軽ーく調べてみた。めちゃくちゃ簡単に言うと、フォームミルクの有無らしい。多分明日には忘れてる。
で、カプチーノとはというと、エスプレッソにミルクとフォームミルクを1:1で淹れたものらしい。(ちなみにカフェラテはエスプレッソにミルクだけ)
だからカプチーノの方が口当たりはなめらかだけど、ミルクが少ない分エスプレッソのほろ苦さがしっかり伝わるらしい。
灰色に白んだ言葉はカプチーノ
みたいな色してる
言い訳はいいよ
呷ろうカプチーノ おどけたふりして
そもそも呷るものじゃないってのがまた。口当たりを楽しむものでもあるカプチーノを、呷ってしまうなんて。
日常って案外そんなもんなのかもしれないな、なんて浅い考察ならいくらでもできるけど、そういうのを一旦置いておいて、クリーンなエレキの音をバイト終わりの電車の中で、窓の外の光を見ながら聞くのが、一番洗われるような気がする。
つんとする電車の中の汗の匂いも、反応の悪い駅の改札にPASMOをタッチする感触も、突然耳鳴りがしてCメロの歌詞が聞こえなくなるのも、どうしようもないくらい自由で、その自由に、少し嫌気がさしている。カプチーノを呷るのだって自由なのに、今私は、それを否定したくてたまらない。
話は変わって、実は年が明けてからほとんど原稿を書けないでいる。課題の短編くらいは書いたけど、それ以外、来月末までに仕上げたい長編は全く進んでいない。この調子じゃまず間に合わないから、そこは諦めて他の賞にでも出そうかなと思っているけど、そんな意志の弱さじゃどうにもこの先創作を続けていけないな、と考えている。
水が低いところに流れるように、私も低みを目指して絶賛駆け降りているのかもしれない。休憩するには疲れていなくて、動き出すには体が重い。
苦いから呷るのかもしれない。どうしようもない日常だから、心を無にして、時間を流し込んでしまうのかもしれない。よく味わってみれば、液晶の暖かさも、暗い道の星空も、アスファルトに這うヤモリも、ベッドの上で聞く始発電車の音も、どれもとっても口当たりがいいのに。
苦いからって呷るから、火傷して喉はただれて、その痛みで余計に動けなくなる。
無理にでも動かなきゃな、で書いたこんな文章が、どうにも苦い日常の、フォームミルクになりますように。
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