【善知識に遇うことは難しい】
正しく仏教を説く先生のことを「善知識」といいます。「善」知識がいるということは、「悪」知識もいるということです。「悪知識」とは、仏教を間違って伝える者のことです。みんな仏教を正しく説くのなら、ただ「知識」といえばいいのですが、残念なことに、間違って伝える者が多いのです。
親鸞聖人は、
【真の知識に遇うことは 難きが中になおかたし】
と言われています。
「真の知識」とは、善知識と同じ意味ですが、その真の知識にお遇いすることは、難しい中にも難しいことだ、と言われているのです。
これは、親鸞聖人が生まれられた鎌倉時代の話だけではなく、今日の日本でも同じです。仏教と言えば、葬式仏教・祈祷仏教・観光仏教など、これらのことを生業としている僧侶がほとんどです。また、私たちを苦しめ悩ませる原因は、煩悩だ、と説く僧侶もありますが、真の知識とは言えません。
私たちを苦しめ悩ませる根本原因は「無明の闇(後生暗い心」一つだ、と説き明かす先生が真の知識であり、その真の知識は雨世の星を探すようなものなのです。その真の知識、法然上人にお遇いすることは、難しい中にも難しいことだった、と親鸞聖人は心の底から喜ばれているのです。