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短編Ⅴ | お使い猫 3/3

再びバスに揺られてお店に着いた頃には、既に開店時間を過ぎていた。ドアを開けると、おじさまがマスター相手にお酒を飲んでいた。カウンター席のど真ん中に陣取っていたおじさまは、「やあお嬢ちゃん、どうもご苦労さん」と笑いながら手を挙げた。

「あの人は、元気にしていたかい?」
「ええ、とてもお元気でした」
「そうかい。オレが言ったとおり、可憐で清らかな美女だったろ?」
「ええ……」

それからおじさまは、1時間ほどご機嫌で喋り倒した。そして、店先まで見送りに出た私に、「お嬢ちゃん、もしもこいつが意地悪をしたら、すぐにおじさんのところにおいで。優しく慰めてあげるからね」と投げキッスを寄越した。
私の斜め後ろに立っていたマスターが、階段を下りていくおじさまを見送りながら、小さな低い声で言った。

「おい、おまえ、何か不満があったらちゃんと俺に言えよ。直すよう努力するから」
「…え?」
「くれぐれも俺に黙って親父さんのところに行くなよ。いいな?」
「…わかってます」

…私に家出されたことが、余程トラウマになってるのね。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「…と、そういうわけなの」

その夜の閉店後。
自宅に帰る道すがら、仔猫は俺に老人ホームでの出来事を話した。

「おじさまはね、おばさまのことを純粋で清らかな人だって信じているの。だから私、おじさまを騙しているみたいで、なんだか申し訳ないな、って」

仔猫の話を聞きながら、俺は首をひねった。
…はて、親父さんに双子の兄貴がいたなんて話、一度も聞いたことがないぞ。

俺は、親父さんから散々聞かされてきた武勇伝の数々を、頭の中に巡らせた。親父さんは生涯独身を貫いているが、その理由は「オレみたいな男と一緒になったって、苦労させるだけだから」と聞いている。
そんな親父さんだが、若い頃には婚約者がいたらしい。確か、早逝した父親が勝手に決めた婚約者だったはずだ。

「そういうことか…な?」
「…え?」
「いや、こっちの話だ」

俺は仮説を立ててみた。
親父さんには親が決めた婚約者がいた。だが、結婚する気がなかった親父さんは、相手を傷つけずに破談にするにはどうすればいいかを思案して、自分は事故死したって嘘をでっち上げた。それを信じきれない婚約者は、親父さんの家まで押しかけた。そこで親父さんの生きている姿を見てしまった婚約者に対し、親父さんは「自分は別人だ。瓜二つの双子だ」と咄嗟に嘘をついた。

…まさか、本当にそんな幼稚なマネをするヤツがいるか?
いや、あの破天荒で子供じみた側面のある親父さんならあり得るのか?そして、半世紀前の世間知らずのお嬢様が相手なら、そんな誤魔化しが通用するのか?

…ちょっと信じがたいが…もしも、俺の仮説が正しければ。
親父さんは今、少し後ろめたい気持ちなのかもしれない。自分が結婚しなかったために元婚約者が一人寂しい状況に陥っているのだと、責任を感じているのかもしれない。
もしかしたら親父さんは、実は元婚約者に惚れていたのかもしれない。元婚約者の幸せを考えて泣く泣く破断に持ち込んだ結果、その女を奇妙に神格化してしまっているのかもしれない。
しかし…あの女好きの親父さんが、元婚約者の本性を見抜けていなかったとも思えない。


俺は、とぼとぼと隣を歩く仔猫を見た。見た目は仔猫だが、これまでいろいろな苦労をして、酸いも甘いも嚙み分けている女だ。勘が鋭いし、よく気が回る。
…どうして親父さんは、この仔猫にお使いを頼んだのだろう。

「多分、親父さんは、全てを織り込み済みなんだろうな」
「…え?」
「親父さんはきっと、その婆さんのことをよくわかってるんだ。でも、できればわからなかったことにして、夢を見続けたいんだ。ああ見えてあの爺さんはロマンティストだからな。おまえなら、そういういろんな矛盾を呑み込んで、うまくさばいてくれると思ってるんだろ」
「…そう?」
「あまり気にせず、これからも、お使いに行ってやれ。おまえなら、親父さんも、その婆さんも、ご機嫌でいさせられるだろ」
「…そうかなあ」


…何しろおまえは、掌の上で人を転がすのが得意だからな…

それを仔猫本人に言えば、「自分も転がされっぱなしだ」と負けを認めたことになるような気がして、俺は言葉を飲み込んだ。


<v5 お使い猫  了>


(次話)








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