【創作大賞2024オールカテゴリ部門】たそがれ #03
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「大丈夫ですか?」
突然頭上から、若い男の涼やかな声が聞こえた。瑠奈がハッと目を開いて声の主を見上げると、瑠奈たちの前方シートの男性が振り向くように立ち、件の変態男に声をかけている。その美しい顔立ちに、瑠奈の目は釘付けになった。
「大丈夫ですか?さっきからずいぶんと身体を震わせて、息を荒くしているようですけど、体調がすぐれないのではないですか。」
若い男は変態男にゆっくりと歩み寄ると、そっと腰をかがめて顔を寄せた。変態男は慌ててスラックスのファスナーを引き上げようとしたが、何かがどうかしたのか、あああっと小さく悲鳴を上げて眉をしかめた。
「こんなに汗をかいて、顔色も真っ青ですよ。すぐに車掌さんを呼んできましょう。」
若い男が身体を起こしたところで、変態男はにわかに立上り、「だだ、だ、大丈夫です」と小さくつぶやくと、スポーツ新聞で股間を隠すようにして、小走りで去って行った。
周囲の乗客が少しざわめいたが、事件が何事もなく落着したのを見届けると、再び車両内には、無関心な空気が漂った。
変質者の姿が見えなくなったところで、若い男が自席に戻ろうとするのを、瑠奈は小声で呼び止め、中腰になって頭を下げた。
「ありがとうございます。助かりました。」
「いえ、礼には及びません。本当にどこかが悪そうだったので、放っておけなかったんです。」
若い男が微笑みを瑠奈に送り、瑠奈はその美しさにめまいを覚えて、よろめくようにシートに座った。再び背中を向けた若い男の手元に何かがちらつき、瑠奈はとっさに凝視する。それは、キャンバス生地で作られた、手のひらサイズの小さなクマのぬいぐるみだった。
「あれっ、そのぬいぐるみ…」
瑠奈は思わず声を上げた。
「え?」
男が振り返った。
「そのぬいぐるみ…すごく似てる。昔、私が持っていたのと。」
「…これですか?」
男は右手に握ったスマホを瑠奈に差し出した。クマのぬいぐるみは、そのスマホのストラップとして取り付けてあった。薄いグレーに黄緑調のタータンチェックで、首には濃い緑色の細いリボンが結んである。瑠奈はそれを手に取ると、懐かしそうにじっくりと眺めた。
「小さい頃に、色違いを持っていた記憶があるんです。私のはベージュにピンクのチェックで、首に赤いリボンがついていました。」
「そうなんですか。よくあるデザイン、なのかもしれませんね。」
男はそう言いながら、空席となった瑠奈の隣にそっと腰を下ろした。思わず瑠奈はどぎまぎする。
「これは僕の母が手作りしてくれたものなんです。僕がまだお腹にいる頃に作ったのだそうです。だから、生まれたときからずっと、僕の身近にあって…お守りみたいなもの、というか。」
「へえ…ずっと大事に持ってるなんて、すごい。私は小さい頃になくしちゃいました。」
これは嘘だ。本当は、父親に取り上げられた。
瑠奈はそのクマのぬいぐるみを「ママ」と呼んで大切にしていた。ある日、父親は幼い瑠奈にこう言った。
「これからは、ナオコさんが瑠奈のママになるんだ。だから、この『ママ』とはバイバイしなくちゃいけない。瑠奈のママは一人だけだから。」
父親は瑠奈の手からそっと「ママ」を取り上げた。瑠奈は抵抗できなかった。父親をがっかりさせるのが怖かった。
…この記憶はあまり深追いしちゃ駄目…。瑠奈は小さくかぶりを振ると、男の顔を直視した。途端、星のように輝く瞳に心を射られて、思わずクラクラする。
「…ええっと…あなたのこと、なんて呼べばいいですか?」
「ああ、申し遅れました。僕はリオと言います。」
「リオ、くん…素敵な名前ですね。私は瑠奈です、どうぞよろしく。リオくんは、とてもお母さん想いなんですね。ずっと昔に作ってもらったものを今も大切にしているなんて。」
「うちは、僕が生まれてすぐに両親が別れたので、ずっと母ひとり子ひとりなんです。だから、いつも母を大切にしなくちゃと思っていて…あはは、我ながら、なんだかマザコンっぽいな。」
「ううん、そんなことない。とても素敵だと思う。」
改めて瑠奈はリオの顔をまじまじと見つめた。
高校生くらいだろうか。ほっそりと柔らかな卵型の顔、ほんのりとピンク色に上気した白い肌。サラサラのマッシュヘアの奥に見え隠れする眉はゆったりと美しい弧を描き、やや太い鼻筋と血色の良い唇が、温かい人柄を感じさせる。くっきりした二重の切れ長の目は長いまつ毛に縁どられ、ヘーゼルナッツ色の大きな瞳は吸い込まれそうなくらい深く澄んでいる。
一方で、小さな顔に比べて首筋は太く、肩が厚い。無駄なく引き締まった長身の身体は、黒いハイネックセーターと、ベージュのチノパンに包まれている。足元のダークブラウンのレザーブーツは、磨き込まれてつややかだ。
こんな綺麗な男の人を実際に見るのは初めてだ。ルネサンス期の宗教画の中に、こんな天使がいなかっただろうか。
新幹線がトンネルに入り、窓に二人の姿が写り込んだ。
なんとはなしにそれを見た瑠奈は、自分の姿にはっとした。
普段の瑠奈は、上質な細身のパンツスーツに八センチヒールのパンプスを合わせ、ミディアムロングのストレートヘアを、一本の乱れもなく整えている。
コケティッシュな顔立ちとスレンダーな肢体は、新入社員の頃、周囲から「水原希子に似ている」とよく言われたものだ。
その上に、隙のないメイク、おおぶりのフープピアス、手入れの行き届いたアートネイル。
瑠奈にとってそれは、のびやかに活躍するための戦闘服。
肩で風を切るように、颯爽と会議室に入る。皆の視線が瑠奈に集まる。場の空気を掌握した瑠奈は、良く通る声でゆっくりと理論的に話し、たまに無邪気に笑いかけ、進行の緩急を自在に操って、誰もが納得する着地点を見出していく。そんな自分の手腕に恍惚とさえする。
だが今の自分は、なんとも惨憺たる姿だ。
徹夜で働くことを想定して、はなからメイクもしていないし、髪もボサボサだ。暖房の効いていない現場に詰めるため、デニムシャツと厚手のローゲージセーターにコーデュロイのワイドパンツ、そして黒いベンチコート。足元は履き古したスリッポン。
天使のように美しいリオと並ぶには、あまりに不釣り合いな自分の姿に、瑠奈は愕然とする。そして、こんなみすぼらしい姿で、圭太の浮気相手と対峙してしまったという屈辱。
圭太に馬乗りになった、ゴージャスな巻き髪のグラマラスな女と、浮浪者すれすれの薄汚い自分。あまりにみじめだ。
天使のような美少年との出会いに高まっていたときめきが、一気にしぼみ、瑠奈は現実世界へと引き戻された。
(続く)
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