短編Ⅶ | with 2/3
「単刀直入に言うけど、お姉ちゃんには家に戻ってもらわないと困るの。お姉ちゃんはうちの跡取りだから」
コメダ珈琲店で仔猫の妹の姿を探し出し、俺が席に着くや否や、妹は俺に向かってそう言い放った。妹の前には、すでにカフェオレとシロノワールが並んでいた。
「お姉ちゃんには、婿養子を取ってもらわないと困るの。そうしてもらわないと、私が代わりにならなきゃいけなくなるんだよ」
俺はブレンドを注文し、そのあとは黙り込んだ。仔猫の妹は俺をきつく睨み、強い口調で一方的に話し続けた。
「うちはね、先祖代々の山持ちなの。これまでずっと、山を守ってきたの。お姉ちゃんは長女だから跡取りなの。なのに、二十歳のときに勝手に逃げ出したんだよ。お父さんは探偵を雇ってお姉ちゃんを探したけど、見つけられなかった。まさか、お姉ちゃんが東京で水商売をしてるなんて。インスタで見つけたんだよ、お姉ちゃんを。すごく痩せてるし、髪の色も違うし、化粧もしてるから、ちょっと信じらんなかったけど」
妹はスマホをタップすると、画面を俺に見せた。画面の中で、仔猫が何人かの客と並んで笑っていた。恐らく『一日マスター』をしている時に客が撮って、アップしたのだろう。
「お姉ちゃんが跡を継がないと、私が婿養子を取らなきゃいけなくなるんだよ。お父さんが決めた男と結婚して、一生、あの田舎で面倒臭いことばっか考えなきゃいけなくなるんだよ。なんで次女の私がそんな目に遭わなきゃいけないわけ?」
妹の言葉のイントネーションには、東北地方らしき訛りがあった。
…仔猫は雪国の生まれだったのか。
俺の心の中に、真っ白な雪に閉ざされている仔猫の姿が浮かんだ。
◆
その後も、妹の口からは仔猫をなじる言葉が延々と続いたが、一通り話し終えてシロノワールを食べ始めたところで、俺は口を開いた。
「…随分と勝手なんだな。自分が背負いたくないから、あいつに背負わせるのか」
「勝手?勝手なのはお姉ちゃんだよ。お姉ちゃんはそういう風に生まれてきたんだから、自分の責任を果たすべきでしょ」
「そんなに嫌なら、あんたも逃げればいいだろ」
「逃げるなんて嫌だよ。そんな苦労したくないもん。それに、お姉ちゃんも私も逃げ出したら、分家の人間が跡を取ることになるんだよ。そんなの許されるわけないでしょ」
妹は気色ばんだ。
「まさか、おっさん、お姉ちゃんと付き合ってんの?」
「まあ、そんなもんだな」
「うそ…お姉ちゃんが、こんなおっさんと…?信じらんない…。…おっさんだって、うちの財産が目当てなんじゃないの?」
「そんなわけないだろ。あいつがそんな大層な家に生まれた女だなんて、今聞いたばかりだぞ」
そのとき初めて俺は、仔猫について何も知らないことに気がついた。
「お姉ちゃんが、好きでこんなおっさんと一緒にいるわけないよ。どこにも行くとこないから、仕方なく、こんなおっさんといるんだよ。パパ活みたいなもんだよ、キモ」
俺は再び沈黙した。
「とにかく」
シロノワールを完食した後、仔猫の妹は立ち上がりながら、吐き捨てるように言った。「お姉ちゃんには家に帰ってもらいますから。近いうちにお父さんを連れて来ますから。そうお姉ちゃんに言っといて」
◆
一人で店に取り残された俺は、長くため息をついた。
さっきまで仔猫の妹が座っていた席には、空のコーヒーカップとケーキ皿が並んでいた。どちらも綺麗に整えられて、食した客の育ちの良さが感じられた。
…随分と面倒な家に生まれてきたんだな。
仔猫は20歳のときに家出して、どこをどう辿ったのか東京に流れ着いて、水商売の世界に入って、ロクでもない男のカモにされて、そしてあの夜、俺のところに逃げ込んできたのか。
あの妹、「次は父親を連れて来る」と言っていたが、なぜ今日連れて来なかったのだろう。また仔猫がどこかに逃げてしまうとは、考えなかったのだろうか。そもそも、仔猫はもう未成年ではないのだから、無理矢理連れて帰るなんて、道理が通らないだろうに。
…それにしても、あの妹、俺にはっきりと『おっさん』って言ったな。『こんなおっさん』って言ってたな。まあ確かに俺は、45歳の立派なおっさんだ。なんなら、もうすぐ46歳になる。あれくらい若い女から見れば、俺は異次元の存在なのだろう。
…46歳の俺と26歳の仔猫が並んでいる姿は、周囲から見れば、やっぱり、それなりに違和感があるのだろうな…
俺は手元のコーヒーカップを両手の指先でとらえながら、沈思した。
…もしも時空が歪んで、25歳の俺と、25歳の仔猫が出会ったとしたら?
…俺はきっと仔猫をオモチャにして、さんざん傷つけて、簡単に捨てただろう。いや、それ以前に、仔猫は25歳の俺に決して懐かなかっただろう。
…35歳の俺と、25歳の仔猫が出会ったとしたら?
…俺はきっと、逃げ込んできた仔猫を、すぐに店から追い出しただろう。あの頃の俺には、誰かを受け入れるような精神的余裕が全くなかったから。
…だから…これで良かったんだ。
45歳の俺と、25歳の仔猫が出会って、正解だったんだ。
両手でもてあそんでいたコーヒーカップから顔を上げて、俺は外を見た。空はすでに真っ暗だったが、目の前のスクランブル交差点は、商業ビルからの灯りに煌々と照らされて、土曜の夜の賑わいを見せていた。白いものがチラチラと舞い、今夜は雪になるという天気予報が正しかったことを知らせた。
◆
店の営業を早めに切り上げて、俺は一人、自宅への帰路についた。ぼたん雪がしんしんと降り、住宅街を白く包み始めていた。
雪をかぶって白くなったコートを玄関で脱ぎ、タオルで足元を叩きながらリビングに入ると、仔猫はバルコニーに佇んで、外を眺めていた。部屋の暖気を逃さないよう、俺は掃き出し窓を細く開けて仔猫に声をかけた。
「おい、そんな薄着で風邪ひくぞ」
「…大丈夫。寒さには慣れてるから」
俺は寝室から毛布を2枚持ち出し、それらを重ねて背中にひっかぶると、サンダルを履いてベランダに出た。そして仔猫の後ろに立ち、仔猫の小さな身体を毛布ですっぽりと包み込んで、優しく抱きしめた。
俺の腕の中で仔猫が小さく呟いた。
「…ふふふ、二人羽織みたい」
「そんな古い言葉を知ってるのか」
「…それくらい知ってるよ」
「雪を見てるのか?」
「…うん。この冬初めての雪だなって思って」
俺は仔猫のミルクティー色の髪に頬を寄せて、仔猫の目に映るのと同じ雪景色を眺めた。
目の前に広がる住宅街は雪で真っ白く覆われ、家々の暖かい灯りがぽつぽつと漏れていた。その向こうの玉川上水の木立が、レース細工のような繊細なシルエットを浮かび上がらせていた。空からは大きな白い雪が間断なく落ち、外灯の灯りをぼんやりと乱反射させていた。ひたすら静かで、ほの明るくて、幻想的な光景だ。
「きれいだな」
「…うん。いつまでも見ていたい」
俺はバルコニーに置きっぱなしにしてあったプラスチック製の肘掛け椅子を引き寄せ、仔猫を膝の上で横抱きにして座った。そして毛布でしっかりと包まり直し、荒目の手摺子の間から外を眺めた。
「これなら、ゆっくり眺められるだろ」
「…ふふふ、私、マスターの子どもみたいね」
「まあ、似たようなもんだからな」
「…本当にマスターの子どもだったら良かったのに」
「それは、つまらないな。少なくとも、俺にとっては」
最後の言葉を仔猫の耳元で囁くように言うと、仔猫は声を出さずに笑い、甘えるように、俺の肩に頭をもたせかけた。俺は仔猫の身体をしっかり抱きしめて言った。
「今日、おまえの妹が会いに来たから、話を聞いたぞ」
「…うん、ありがと。…ごめんね、巻き込んで」
「実家に帰ったりしないよな?」
◆
仔猫の父親から呼び出しを受けたのは、それから3日後だった。指定された料理店に向かう電車の中で、これからの展開を想像し、俺は少し緊張した。
だが、仔猫の父親から聞かされた話は、俺の想像とはちょっと違っていた。もとい、俺の想像の斜め上をいく話だった。
その話を聞かされた俺は、仔猫のことを何も知らなかったのだと、改めて思い知った。
(つづく)