短編II | 飼い猫 1/2
「そう言えばおまえ、猫を飼い始めたそうだな」
カウンター席に座る親父さんが、琥珀色の液体を口に含みながら言った。
「随分とかわいい仔猫なんだって?いつも店に連れて来てるって聞いたから楽しみにしていたのに、今日はいないのか。会えなくて残念だよ」
俺はその言葉を黙殺し、手元の作業に集中した。
◆
傷だらけのあいつを俺の家に引き取ったのは、2月の冷たい雨の日だった。顔の怪我が酷かったので、それまで勤めていた店を辞めさせざるを得なかったが、傷が癒えた頃合いを見計らって、この店に連れて来るようになった。
当初、あいつは例の男がやってくるのではないかと怯えていたが、「俺がいるんだから心配ないだろ」と言ってやると、それだけで安心した様子だった。
死んだ母親からこの店を引き継いだのは、15年前のことだ。
母親はこの店をスナックとして営業し、他にも2人ほどをカウンターに入れていたが、人付き合いが苦手な俺は誰かを雇うことを嫌い、スナックからバーに業態を変えて、一人で切り盛りすることにした。開業当初は客数もさほど多くなかったので問題なかったが、常連客が増え始めてからは一人では手が回らなくなり、この数年どうしたものかと考えあぐねていたのだった。
あいつを連れて来るようになってから、店はスムーズに回るようになった。もともと客商売をしていただけに、あいつは万事気が利くし、物静かなので店の雰囲気を壊すこともなく、何より、これまで中年男の俺一人しかいなかった店内に華を添えたとあって、客の評判はすこぶる上々だ。だが一方で、周囲からはあいつが俺の「女」に見えているらしく、勝手な勘違いの噂が広まりつつある。それが、この店のオーナーである親父さんの耳にも入ったのだろう。
俺が固い表情で黙り込んでいるのを見て、親父さんは苦笑いしながら取り成した。
「おいおい、オレはおまえから飼い猫を取り上げるつもりなんてないぞ。素直に嬉しいんだよ。おまえに女がいるなんて話、これまで聞いたことがなかったからな」
…いや、だから、俺の「女」じゃなくて、ただの居候だ。さっき親父さんが言った「飼い猫」のほうがまだ実態に近い。だがそれを言えば、親父さんがあいつに妙な関心を寄せそうな気がしたので、俺は黙ったままでやり過ごすことにした。
◆
親父さんは、1時間ほど機嫌よく喋って帰って行った。
今日はもう、客は来ない。ドアには最初から「CLOSE」のサインをかけているし、窓のロールスクリーンも下げたままにしてある。
俺はカウンターの上を片付けながら、親父さんの言葉を反芻した。
「飼い猫」か…。
思えば、俺の母親は、親父さんの飼い猫だった。
俺たち母子が凶暴な男から傷めつけられていた頃、親父さんは俺の母親を拾い上げた。俺たちは、薄汚い木賃アパートから小ぎれいなマンションへと移され、親父さんの出資によってこの店を当てがわれた。俺たちが真っ当な生活をできるようになったのは、親父さんのおかげだ。
だが俺には、凶暴な男と取っつかみ合って大喧嘩していた頃の母親の方が、まだマシに思えた。母親は親父さんにとって、都内のあちこちに囲っている飼い猫のうちの一匹に過ぎなかった。いつ捨てられるかもわからない不安から、母親はいつまでも、親父さんに媚び続けた。そのねっとりと下卑た眼差し。愛情なんてまるでない、打算的な関係。そんな母親の態度が、俺の中の何かを着実に蝕み続けた。
親父さんだって、俺の母親にどんな愛情を抱いていたのかわからない。行きつけのクラブでたまたま見かけた薄幸そうなホステスに同情しただけではなかったのか。ただの暇つぶしのためだけに。
「飼い猫」…
俺だって、親父さんと同じなんじゃないのか。ずぶ濡れの捨て猫みたいだったあいつに、同情しただけなんじゃないのか。成り行き上、仕方なく家に連れ帰って、捨てるに捨てられなくなっているだけじゃないのか。
あいつだって…他に行く当てもないから、仕方なく俺について来ただけなんじゃないのか。俺に捨てられたくなくて、媚びているだけなんじゃないのか。…俺の母親と同じように。
俺はタンブラーにアイスキューブを掴み入れ、”桜尾”をドボドボと注ぎ込んだ。そして手元でグルグルと回し、一気に空けた。
…俺は、親父さんとは違う。俺はあいつを自分の所有物みたいに扱っていないし、飼い慣らして悦に浸るような、傲慢な真似はしていない。
俺はタンブラーにもう一度"桜尾"を注ぎ入れて、一気に空けた。急激に酔いが回る。酔いが回った眼で、カウンター下の床を見つめる。
…傲慢な真似はしていない…?そんな偉そうな口を利けた義理か。母親を殺したのは、俺じゃないか。あのとき、俺は何のつもりでこの店に来た。
15年前の今日。30歳の俺は、この店に来た。この店に来て、床に転がっている母親の死体を見つけた。
あの時、俺は、母親にカネをせびりに来たのだ。幼い頃から酷い目に遭わされてきたのだから、これくらいのことは当然許されるはず。そんな甘ったれた態度で、俺は母親から散々カネをむしり取った。時には暴力も振るった。あの凶暴な男と同じように。
そう、あの時、俺の母親はここで死んでいたのだ。第一発見者の俺は、普段の素行の悪さ故にすぐさま疑われたが、死因は急性アルコール中毒だと判明し、無罪放免となった。
だが…殺したのは、間違いなく俺だ。母親はカウンターの上に遺書を残していた。そこには、俺に対する詫びが、一文だけ書いてあった。
俺はもう一度、タンブラーに”桜尾”を注ぎ入れた。
…この店は俺の母親の墓標で、俺は墓守だ。
俺は死ぬまでずっと、この墓標を守っていく。
幸せになることは許されない。
俺は、母親を殺したのだから。
手元がぼんやりと滲む。
…今すぐ、あいつに、会いたい。
(つづく)