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【創作大賞2024恋愛小説部門】早春賦 #19「可憐で可愛らしいお姫様」

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惣一郎が出勤すると、店内には既に着物姿の若葉がいたが、惣一郎の姿を認めても、何も言わずプイと顔を背けた。
惣一郎は再びげんなりし、鬱々とした気分でその日を過ごしたが、閉店後のタクシーの中で、若葉の方からしおらしく謝ってきた。

「モクさん、昨日は困らせるようなこと言うて、ごめんなさい。」

…相変わらず素直で率直なやつだな。

 そう思いながら、惣一郎は若葉をちらりと見る。昨日は若葉の激しい剣幕に驚かされたが、こうして落ち着いてみると、若葉の本質は以前と少しも変わらない。きっと今日も、意地を張って惣一郎を無視し続けているうちに、自分の方が寂しい気持ちになって、たまらなくなったのだろう。

「あたし、昨日、めちゃ綺麗な女の人があの加賀友禅を着てる写真を見てしもうたの。この人、モクさんの彼女さんやろか、なんでモクさんは、彼女さんの着物をあたしに着せたんやろか、顔も体型も雰囲気も全然違うのに、こんな綺麗な人と比べられてんのやろか、って思うたら、惨めな気持ちになって、それで……あんなこと言うて、ごめんなさい。」

…あの加賀友禅を着ている女の写真。

「…その写真、どこにあった?」

「根津美術館の、焼き物の図録に挟まってた。いろんな写真と一緒に、小さなクリアフォルダに入って。…勝手に見て、ごめんなさい。」

…あの写真は、そんなところに紛れ込んでいたのか。道理で見つからなかったはずだ。

惣一郎は目を閉じて、小さくため息をついた。隣では若葉が、切実な顔をして惣一郎を見つめている。惣一郎は、そんな若葉をちらりと見て言った。

「…あれは、俺の母親や。」


…あの写真は、俺の母親の遺品であり、俺の父親の遺品でもある。
あの写真は、俺の七五三の宮参りのときに、父親が撮ったものだ。父親が撮って、長期出張か何かで滞在していた広島で現像して、母親に郵送した。

俺は二十八歳のとき、母親の遺品整理の際に、その封書を見つけた。それは美しい袱紗に包まれて、ジュエリーボックスの引き出しの奥底に隠されていた。封書と一緒に写真が二枚入っていて、一枚は父親と俺が手をつないでいる写真、もう一枚は若葉が見つけた写真だった。

母親は、俺の記憶とは別人のように美しかった。封書には、母親と俺に対する、父親の深い愛情が綴られていた。あの優美な加賀友禅は、父親が独身時代の貯えをはたき、着物好きの母親のために特注で作家に描かせたものだと、封書を読んで初めて知った。
封筒の消印は、父親が事故で死ぬ二日前だった。母親が何度も読み返したであろうことが、紙の朽ち具合から窺い知れた。

俺の母親は、親父さんの愛人になる際に、俺の父親の遺品を全て処分した。俺の父親の遺品を何一つ残さず、気に掛ける素振りも見せなかったため、俺は、二人は愛情の薄い夫婦だったのだろうと、勝手に思い込んでいた。

あの写真に写る母親は、きっと、人生で一番幸せだった。幸せの絶頂にいる女が、最愛の夫に笑顔を向けた。そんな女を、夫が愛情を込めて撮影した。写った女の満たされた美しさを見て、若葉が同性として嫉妬するのも無理はない。

母親の遺品の中からあの写真と手紙を見つけて、俺は泣いた。母親が遺したマンションで、独りぼっちで泣いた。

愛する妻と子を遺して逝った父親の無念を思って、泣いた。

他の男の愛人になるために亡夫との思い出を全て処分して、でも、この写真と封書と加賀友禅だけは処分できなかった母親の心情を思って、泣いた。

俺は両親から望まれて生まれて、深い愛情を注がれていたのだと初めて知って、泣いた。

そのことを、母親が死ぬまで知ることができなかった自分の不幸を呪って、泣いた。

その後、父親の写真と手紙は大切に保管してあるのに、母親の写真だけがなくなってしまった。何度も取り出して眺めているうちに、引っ越しの荷物に紛れてしまったのだろうと思っていた。それを昨日、十三年ぶりに若葉が見つけてくれたのだ。

着物は、母親と俺をつなぐ、ほぼ唯一の絆だった。父親が死んだあと、それまで専業主婦だった母親は、小さな俺を抱えて職を転々とした。新地でホステスとして働き始めて以降、俺は、朝は母親を起こさないようにして登校し、夜は一人きりで過ごすようになった。

俺が学校から帰り、母親が出勤するまでのわずかな時間、母親は俺に着付けを手伝わせた。それが唯一、俺が母親と二人で過ごせる大切な時間だった。母親はいつも俺に対して冷淡だったが、着付けを手伝わせる間だけは、母親らしい情愛を見せてくれた。

去年の秋。定休日に、初めて若葉が花を抱えて店に現れた日。俺は、母親から教わったコツを一つ一つ思い出しながら、若葉の帯を直してやった。
 母親の着付けを手伝っていた頃を思い出して、とても懐かしかった。これからもこんな風に、若葉の着物の世話をしてやれたら、どんなに楽しいだろうと思った。


惣一郎は、若葉をちらりと見た。若葉は顔を両手で覆っている。耳が真っ赤だ。

「ほんまに、ほんまに、ごめんなさい…。」

あの写真の女性は、惣一郎の恋人ではなく、惣一郎の母親だったのだ。それなのに、勝手に早とちりして焼きもちを妬き、その感情を、惣一郎に思い切りぶつけてしまった。ああ、もう、恥ずかしくてたまらない。

そんな若葉を見て惣一郎は、何か元気づけてやりたい気分になった。見つからないとあきらめていた写真を若葉が見つけてくれて、気持ちが高揚していたのもあるだろう。

「…俺は着物が好きや。そやから、自分が好きなもんをお前に着せたい、と思うて押しつけたことは、否定せえへん。お前はケバい格好するより、着物を着た方が綺麗やろ、と思うたし、露出度が高すぎる格好して、これ以上悪い虫がついたらあかん、とも思うたし。そやけど別に、俺の母親みたいになって欲しい、とは思うてへん。
俺は、ママの着物と母親の着物を何枚も並べて、お前が最初に着る着物はどれがええか、お前の顔を思い浮かべながら真剣に選んだ。その結果、選んだんが、たまたま、あの加賀友禅だっただけや。帯も小物も、お前に似合うもんを、よう考えて選んだ。そやから、俺の母親が着たんと違う雰囲気なんは、当然や。
お前はお前で、可憐で可愛らしいお姫様みたいになれてたやろ?」

若葉はうつむいたままだが、やはり顔を真っ赤にしたまま、胸の前で両手を組んで、モジモジしている。

…昨日といい、今日といい、俺はつい感情的になって、べらべらと余計なことばかり喋っている。

惣一郎はそう思った。


続く

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