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【創作大賞2024恋愛小説部門】早春賦 #21「アナベル」

前回のお話はこちら》


翌日の夕方、惣一郎が早めに出勤すると、店内には既に若葉がいた。
 
着物の上に割烹着をかぶり、カウンター裏のシンクで何やら作業をしている。目の前のカウンターの上には、アナベルを生けていた青磁の花瓶がある。

「…水切りしてんのか。」

「うん。今日は暑かったから、早う綺麗にしといたげようと思うて。」

若葉は水を張ったボウルの中で花切りばさみを動かし、アナベルの茎をパチパチと切り落としている。

「モクさんは、このお花が大好きやの?毎年この時期になると、たくさん生けてはる。あたし、ずっと、お花はママが生けてんのやと思うてけど、実はモクさんやったのね。」

若葉は、小さな白い花弁の群れにそっと触れながら言う。

「あたしもこのお花、大好きやわ。清楚で、純粋で、一途な感じがするもの。それにね、この白くてまんまるなお花がお庭でいっぱい咲いてるんを見ると、なんや、小さな可愛らしい男の子たちが、いっぱい笑ってるみたいに思うの。ほんま、可愛らしいなあ、って、撫でてあげたくなる。」

惣一郎は、アナベルを愛おしそうに見つめる若葉の表情を見て、ふと、自分の母親のことを話したくなった。何故なのかは自分でもよくわからない。

「…俺の母親の命日だったんや。昨日が。」

「こずえさんの?」

「…俺の母親のこと、知ってんのか。」

「詳しくは知らへんの。このお店は、前は『スナック・こずえ』やったのを、こずえさんが亡くならはったあとにモクさんが引き継いで、『バー・こずえ』にしたんや、ってママが言うてたから。」

「…ママはずっと、俺の母親を手伝ってくれてたからな。俺の母親が死んだときも、ママが死体を見つけてくれたんや。俺の母親が、そこに転がって、死んでんのを。」

惣一郎は入口ドアの前に立ったまま、カウンター席のスツールの下を見つめて言った。そこは、かつて若葉が泥酔して、寝転がっていたのとほぼ同じ場所だ。
若葉は絶句して、アナベルの水切りの手を止める。

「…俺は東京にいてたから、現場を見てへんけどな。急性のアル中やったらしい。ウォッカを瓶一本ラッパ飲みして、吐いたもんを喉に詰まらせて、窒息したんやて。その花は、そん時に店に飾られてたらしい。去年までは、命日になるとママが生けてた。今年は俺が生けたけど。」

「………」

「…まあ、俺が殺したようなもんやな。」

惣一郎は淡々とした口調で言った。

「…俺が、母親を追い詰めて死なせたんやろ。どうしようもないクズやったから。」

「モクさん…。」

若葉は小さく呟いて、惣一郎の顔を見る。惣一郎はいつもの無表情で、荒んだ眼差しをカウンターの下に向けている。

…ああ、俺はまた若葉に余計なことを喋っている。こんなことを、誰にも話したことがない。どうも最近の俺は、理性のタガが緩んでいるようだ。若葉が素直で率直すぎるから、俺も妙な影響を受けているのだろうか。

惣一郎は、この話を締めくくることに決め、少し語調を変えて言った。

「…悪かったな。こないな気色の悪い話をして。でもまあ、この花は毎年生けてるからな。若葉がその理由を知っといてもええやろ、と思うた。それだけや。」

「……モクさんは、寂しい?」

「………」

惣一郎は、若葉からの問いを黙殺しようとしたが、若葉が泣きそうな顔をして自分を見つめているのに気づき、考えを改めた。

「…どうやろな。寂しいんか寂しないんかは、考えたことがない。母親とは長いこと離れて暮らしてたし。そないに仲のええ親子でもなかったし。母親から可愛がって貰うた記憶も、あんまし、ない。
俺の行いが悪すぎるから、母親は、俺のことを嫌うてたんと違うか。そやから、俺をおいて死ぬことにしたんやろ。」

若葉がカウンターの中から出てきて、真正面から惣一郎に抱きついた。

「モクさん、思い切り泣いてええよ。あたしがぎゅうってしといてあげるから。」

「…泣く?なんで俺が。」

「………」

若葉は無言で、惣一郎を抱きしめている。その若葉を引き離そうと、肩に手をかけてうつむいたところで、雨だれのような雫がパタタタッと、若葉の白い割烹着の肩に落ちた。惣一郎は驚いて、自分の顔に手を当てる。頬が濡れている。

…泣いている、俺が。

そう自覚した途端、涙が止まらなくなって、惣一郎はうろたえた。もう長いこと、泣いたことがない。
 
惣一郎は、手の甲で懸命に頬を拭う。惣一郎の涙が、若葉の白い割烹着にシミを作っていく。若葉は、惣一郎の胴に腕をしっかりと回したまま、離れない。
そうしてしばらくした後、惣一郎が落ち着いたのを察して、若葉はそっと躰を離した。そして黙ったまま、割烹着のポケットからハンドタオルを取り出して、惣一郎の頬を優しく押さえてやった。

惣一郎は、恥ずかしいところを見られて居たたまれなくなりながらも、なぜか拒めず、まぶたを閉じたまま若葉に従っている。まるで自分が小さな子どもで、若葉が母親のようだ。

「あたし、こずえさんがどういう気持ちでアナベルを生けはったんか、わかる気がするの。アナベルの花言葉は『ひたむきな愛』なんやって。
きっと、こずえさん、モクさんのお父さんに迎えに来てほしいって願いを込めて、白くて純粋なアナベルを生けはったんやと思う。」

惣一郎の涙を拭き終わったあと、若葉は小さな両手で、惣一郎の大きな両手を握りしめて言った。

「こずえさんは、モクさんのお父さんのことが大好きやったんやわ。そやから、早う会いたくて、会いたくて、たまらんなって、死ぬことにしたんや。
そんで、モクさんのお父さんにやっと会えて、抱きしめて貰うて、幸せな気持ちで亡くならはったんやと思う。
こずえさんが亡くならなったんは、モクさんのせいやない。あたしはそう思う。」


続く

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