【創作大賞2024恋愛小説部門】早春賦 #14「ママの願い」
《前回のお話はこちら》
十一月。
朝晩は冷え込むが、日中は良い塩梅の小春日和が続いている。若葉とママは、自宅から少し足を延ばして服部緑地を訪れ、のんびりと散歩している。
ママは手術を無事に乗り越え、十月に二度目の退院をした。ようやく若葉と暮らすマンションに戻って来られたものの、お店で接客をするのはまだ難しい。
今日も、ママと並んで歩きながら、若葉は空の車椅子を押している。いつでもママを支えられるように、厚手のパーカーにベイカーパンツ、足元はスニーカーといういでたちだ。
「若葉ちゃん、ゆうべもまた、モクさんから写真が送られてきたで。ラインで。」
ゆったりと歩きながら、ママがスマホを若葉に見せた。そこには、口に手を当てて大笑いしている若葉の姿も写っている。若葉は恥ずかしくて顔が真っ赤になる。
「まあ、嫌やわ。いつの間にこんな写真を撮らはったんやろ。」
「あの人はマメやから、いろいろな写真を撮って送ってくれるの。それにしても若葉ちゃん、ものすごく綺麗やわ。私の着物を役立ててくれて、ほんまに嬉しい。もう私がおらんでも、お店は大丈夫やな。モクさんも、よう頑張ってる。」
「あかんよ、そんなん言うたら。ママが戻ってくるの、スーさんも待ってはんのやから。」
スーさんは、ママがお世話になっている旦那さんだ。誰もが知る大企業の偉い人で、普段は東京にいるけれど、ごくたまに大阪に来て、カウンター席でお酒を飲む。
そしてモクさんに話しかける。モクさんはスーさんを「親父さん」と呼ぶけれど、特に親しい風もなく、他のお客に対するのと同様、顔も見ないし、必要最小限の受け答えしかしない。
「モクさんは、誰とも目を合わさへんし、人と関わろうとせえへんやろ。あれはな、相手のことを嫌うてるんとも、人付き合いが面倒臭いんとも違う。
相手に感情的になって傷つけるんが怖いからなんや。誰かを傷つけるんが、怖くて怖くて仕方がない。自分は周りを傷つける種類の人間やって思い込んで、自分を一切信用してへん。モクさんは、そういう人やのよ。」
そこでママは言葉を切って、隣に並んで歩く若葉の手を、ギュッと握って言った。
「そやから、若葉ちゃん。モクさんのこと、よろしゅう頼んだで。」
「そんな、どしたの急に…。ママが早う復帰してあげればええやない。」
「私、もう先が長くない気がしてるの。そやから、若葉ちゃん。あたしの遺言やと思うて、覚えといてちょうだい。」
急に口調を改めたママに驚き、若葉はおどけて応じようとするが、ママは真剣な表情を崩さない。
「若葉ちゃん、『人間、万事塞翁が馬』っていうんは、ほんまやのよ。幸せが不幸のタネになって、不幸が幸せのタネになる。私は、病気で倒れたから着物姿の綺麗な若葉ちゃんを見ることができた。若葉ちゃんも、悪いホストに捨てられたからモクさんと出会うことができた。人生は、そういうもんや。そやのにモクさんは、自分は絶対に救われへんって思い込んでる。」
若葉の手を握るママの手に、力がこもる。
「モクさんは。自分の人生はずっと真冬のまんまで、春は絶対けえへんと思い込んでる。そやから若葉ちゃんは、モクさんが無愛想でも、いつも隣で笑っといてあげてちょうだい。モクさんには見えてへん光を、教えてあげてちょうだい。あたしの遺言やと思うて、な。」
「嫌やわ、ママ…そんな真剣に言わんといて。ママは絶対に長生きするって…。」
「そやな。生きてるうちに、モクさんが心から笑う顔を、いっぺんでもええから見てみたい。そうやないと私、あの世でこずえさんに合わせる顔がないわ。」
若葉とママは、円形花壇のコスモス畑を抜けていく。
無事に年が明け、二月になった。
ある夕方。若葉は店に向かって道を急いでいる。普段は余裕を持って出勤するのだが、この日は寄り道をしたために、ギリギリの時間になりそうだ。すでに日の入りの時刻を過ぎ、新地のネオンは煌々と輝いている。途中、若葉はつぼみと遭遇した。
「おはようございまぁす。ずいぶん大きな紙袋を持ってはりますねぇ。」
「うん、そうやの。もうすぐバレンタインでしょ。お客さんに配るために、早めにチョコを買うとこって思うてね。」
「なるほど~。バレンタイン当日やと、お店が激混みですもんね。…そっちの可愛らしい袋も、お客さんへのチョコですかぁ?」
つぼみは若葉から大きな紙袋を引き取りながら、若葉が持つもう一つの小さな紙袋にも手を伸ばそうとする。若葉は「あ、これはええのよ」とつぼみを優しく制した。
「これはモクさんのやの。食べてくれるかどうかはわからへんけど。」
「なるほど~。」
つぼみが意味深な笑みを浮かべたように感じて、若葉は慌てた。
「義理やで、義理。普段お世話になってるから、お礼くらいしとかんとな、って。」
「義理ですかぁ。うふふ。モクさん、若葉ママからのチョコなら喜んで食べますよ。」
「え、そう?」
「そりゃそうですよぉ。表向きは全然興味ないっていう顔をしはるでしょうけど、内心は、めっちゃ喜ぶに違いないですよ。だから絶対に『義理』なんて言うたらダメですよ?」
二人ははしゃぎながら店のドアを開けた。カウンターには既にモクさんが立っていて、いつものように氷を切り出している。背後の酒棚の内部照明がボトルに乱反射し、黒ずくめのモクさんの影を浮かび上がらせる。若葉はその大きな影を、とても美しいと思う。
「モクさん、おはよう。」
若葉が笑顔で挨拶すると、モクさんはちらりと若葉を見て、いつもどおり小さく頷いた。そして、すぐに手元に視線を落とした。
(続く)
《前回のお話はこちら》
【第1話はこちら】