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短編II | 飼い猫 2/2

玄関で派手な物音がして、私は目を覚ました。
私と彼は1LDKのマンションに住んでいる。私の寝床は玄関のすぐ目の前にあるので、彼が帰って来たらすぐにわかる。私は寝床を抜け出して、廊下に出た。廊下の灯りは点けっぱなしで、リビングにつながるドアが細く開いていた。私はそのドアの隙間をスルリと抜けて、音を立てずにリビングに忍び込んだ。
リビングの灯りを点けないまま、彼はソファの上に倒れていた。ダイニングチェアには脱いだ上着が無造作に掛けられ、床に半分落ちていた。いつもならすぐにハンガーにかけるのに、今夜は随分と珍しい。そっと彼に近づいてみると、強いアルコールと、いつもは吸わない煙草の臭いがした。

…どうしたの?そんなに酔っ払って帰って来るなんて、珍しいね。

私は仰向けに倒れた彼の腕の中にスルリと滑り込んで、口元をチロリと舐めた。彼はピクリとも動かない。

…どうしたの?いつもなら、すり寄る私を苦笑いしながら押し退けるのに、今日は押し退けなくてもいいの?

私は彼の頬をチロリと舐めた。…しょっぱい……泣いているの?

「やめてくれ」

彼が呻くように言った。その声音で、かなり酔っ払っていることがわかった。

「今日の俺は、いつもとは違うんだ…ものすごく気が立っているんだ…。おまえに乱暴なことはしたくない。頼むから、さっさとあっちの部屋で寝てくれ」

私は首をかしげて彼を見下ろした。彼は私を見たくないのか、あるいは私に見られたくないのか、片腕で目元を覆っていた。口元が固く引き結ばれ、歯を食いしばっているのがわかった。
私は彼の身体の上から滑り下りた。同時に彼は寝返りを打ち、私に背を向けた。私はカーペットの上に座り、彼の大きな背中を見つめた。私と彼の間には、見えない膜がピンと張られていた。

「なんだよ…さっさとあっちに行けよ」

背中を向けたまま、彼が言った。こんな乱暴な言葉を私に投げつけるなんて、初めてのことだ。

「どうせおまえは、他に行くところがないから、仕方なく俺について来たんだろ。ただそれだけだろ。だったら、このまま俺と一緒にいたって良いことないぞ。もっと優しい『飼い主』を探して、さっさと出て行けよ」

…急にそんな言い方をするなんて、一体どうしたの?お店で何かあったの?いつもは私をお店に連れて行くのに、ゆうべは家に置いて行った。「今日は特別な日なんだ」って言っていたけれど、誰か特別なお客さんでも来たの?その人に、何か嫌なことでも言われたの?

頭の中にたくさんの質問が飛び交ったけれど、私は一番訊きたい質問だけを選び取って、彼の背中に小さく囁きかけた。

「…ねえ、さっき『飼い主』って言ったけど、マスターは私の『飼い主』なの?だったら私、マスターにもっとたくさん甘えていい?」

「そんなつもりで言ったんじゃない…」

…甘えちゃダメ、とは言わないのね。

「…マスターが私の『飼い主』なら、私のことをもっと好きなようにすればいいのに、どうしてそうしないの?私は、女としての魅力がない?」

「そんなことは、言ってない…」

…酔っ払うと、いつもより素直に答えてくれるのね。

「…じゃあ私のこと、女として、好き?」

「……」

…黙っているってことは、私のことを女として好きだって認めるのね?

私は立ち上がり、彼が横になっているソファの背もたれをゆっくりと倒した。そして、クローゼットから夏布団を取り出し、彼の身体にそっと掛けた。

私をこの家に引き取って以来、彼は自分の寝室を私に譲り、リビングのソファベッドで眠っている。その方が私に気兼ねしなくて済むのだと、彼は言う。
二人で暮らしながら、彼は私に一切触れようとしない。私のことをお客様のように大切に扱っていると言えば聞こえがいいけれど、実際のところ、彼は自分の周りに見えない膜をピンと張って、私のことを全身で拒絶している。私のことだけじゃない。彼はいつも周りを拒絶して、自分の孤独を懸命に守ろうとしている。それがどうしてなのか、私にはわからない。

でも…今はお酒をたくさん飲んだせいで、彼を守っている孤独の膜が、ゆらゆらと揺らいでいるみたい。今なら色んな秘密を打ち明けてくれるかしら。彼の孤独の膜の中に、私を入れてくれるかしら。

私は、彼の背中を夏布団ごしにそっと抱き締めた。彼の背中が固く強張り、私を拒絶する意思が伝わった。私は夏布団に頬を押し当てながら呟いた。

「…私のことを女として好きなのに、どうして抱き締めてくれないの?」
「今日は、俺の母親の命日だったんだ」

思いがけない回答に、私は顔を上げた。腕の中の彼の身体が、かすかに震えているように感じた。

「俺が母親を殺したようなもんなんだ。俺はそういう人間なんだ。自分のせいで誰かが不幸になるのは、もう見たくない。お前もさっさと他所に行ってくれ」

彼が泣いているように思えて、私は黙って、彼を抱き締めた。上体ごと彼の背中に覆いかぶさって、腕を大きく回して優しく抱き締めた。夏布団ごしに彼の体温が伝わって、体温と一緒に、彼のどうしようもない寂しさが伝わって、私はギュッと目を閉じた。私の体温が彼に伝わればいい。私の体温が彼に伝わって、少しでも温めてあげられたらいい。

しばらくして、彼の身体の緊張が和らかくほどけ、静かな寝息が聞こえ始めた。私はそっと上体を起こした。そして彼の耳元で小さく囁いた。

「…マスター、私はどこにも行かないよ。マスターと一緒にいるだけで幸せだもの。ずっとそばにいるから、安心して」

…私は、仕方なくマスターに拾われたんじゃないもの。私がマスターを選んで、ここまで着いて来たんだもの。マスターも、私を選んで拾ってくれたんでしょ?成り行き上、仕方なく拾ったわけじゃないんでしょ?
…私のことを、女として好きでいてくれるんでしょ?

今日の会話を、きっと彼は覚えていない。朝になれば、いつも通りの優しい彼に戻って、私をお店に連れて行ってくれるはず。私から少し距離を置きながら、だけど心はぴったりと、私に寄り添ってくれるはず。

私は眠る彼の耳たぶにそっとキスをすると、自分の夏布団にくるまり、彼の足元で丸くなった。



<v2 飼い猫  了>


(次話)


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