【創作大賞2024恋愛小説部門】早春賦 #24「一緒に暮らせばいいのに」
《前回のお話はこちら》
それ以降、定休日の若葉は、余程の悪天候でもない限り、惣一郎の部屋でこずえの着物を着るようになった。
「夏の暑いあいだは、朝の涼しい時間に移動したほうがええやろ」
と惣一郎は言って、早朝にドアチェーンを外しておいてくれる。
八月の定休日の6:00。
その日も惣一郎の部屋に向かうため、自宅のリビングに姿見を出し、若葉はいそいそと長襦袢を着付けていた。その背後から、寝間着姿のママが声をかけてきた。
「若葉ちゃん、この暑いのに、今日も三十分歩いてモクさんちまで行くの?ご苦労なことやなあ。」
「早い時間はちょっと涼しいから、まだマシやのよ。」
「そんで、モクさんちで着物を着付けてから、また吹田のお教室まで行くんやろ?」
「それは、うちで着ても、モクさんちで着ても、同じだけかかるから、構わへんの。」
そして若葉は、思い出したように、フフフと笑う。
「モクさんちでね、最初にあたしが着物を選ぶでしょ。そしたらモクさんが、その着物に合う帯やら帯揚げやらを、めちゃ嬉しそうに選んでくれるの。モクさんの嬉しそうな顔を見るんが、あたしの楽しみやのよ。」
「まあ…。」
ママは何とも言えない表情で、若葉の顔をしげしげと眺めた。
「そやけど若葉ちゃん、今の時間はまだ、モクさんは寝てるんと違うの。」
「うん。でも、一旦早起きして、ドアのチェーンを外してくれてる。そんでもって、二度寝してはる。ふふ、あたしも、モクさんが起きてくるまでソファでうたた寝してるの。」
「もう、そないな面倒くさいことせんで、一緒に住んでしもうたらええのに。」
「え?」
「若葉ちゃんがモクさんちに住んだらええやないの。」
「それは無理やと思うわ。モクさんちは小さいから、あたしが居候するような部屋は余ってへんもの。」
「二人で同じお布団に寝ればええやない。」
「……え?」
「もう、モクさんとそういう関係になった方が、話が早いやんか。」
若葉はママの言葉に戸惑う。
「…ママ。あたしとモクさんは、そういうんとは、ちょっと違うの。モクさんはあたしをそんな風に見てへんし、あたしも、モクさんにそういうのは求めてへんの。」
「そんな、若葉ちゃん…女として、今が一番華やかで、ええ時期やのに。」
ママは若葉の頬に手を伸ばして、そっと撫でる。
「モクさんとおままごとしてる場合ちゃうで。今のうちに、ちゃんと男の人に可愛がっといてもらわんと。女はあっという間にしおれてしまうんやから。」
「ありがとう、ママ。心配してくれて嬉しい。あたしも、そのうち誰かと、とは思うてる。そやけど今は、もっと違う方に興味が向いてるから。」
「……もったいないなあ。」
若葉は長襦袢の上に手早く浴衣を括りつけ、「ほな、行ってきます」と言って、部屋を出た。
夏の早朝の、まだ影が長い時刻。若葉は日陰を選びながら、惣一郎の部屋に向かう。確かに徒歩三十分は遠いが、その間、お茶とお華の稽古のおさらいとか、今日はどの着物を着ようか、とか、惣一郎にどんな質問をしようか、とか、次はどの美術館に行きたいか、とか、そんなことを考えていると、あっという間に惣一郎の部屋についてしまう。
惣一郎の部屋の鍵を開け、そっと草履を脱ぐ。惣一郎を起こさないように静かにリビングに入り、ソファに座って一息つく。ドアチェーンを外すタイミングで冷房を入れてくれているのだろう。若葉が到着する頃には、ほど良い室温になっている。
「暑かった…。」
若葉は半幅帯を解いて浴衣を脱ぎ、足袋も脱いで、長襦袢だけの姿となってソファに横たわりながら、先刻のママの言葉を反芻する。
…確かに、この一年半、男の人に触れられていない。ママが倒れて以来、そんなことを考える余裕がなかったし、今は、営業日も定休日もモクさんと一緒にいるから、他の男の人と一緒に過ごす時間なんて、どこにもない。
他の男の人と過ごす暇があるなら、もっとモクさんと一緒にいたい。いつかは誰かと結婚して、子どもが欲しいとは思っているけれど、それはまだまだ先の話でいいと思う。
モクさんと、ママが言うような関係になることは、あまり考えたくない。男性としてのモクさんに惹かれていない訳ではない。
でもモクさんは、あたしの大切な師匠であり、お仕事仲間であり、父親であり、親友だ。生々しい関係を持ち込むことで、今の居心地の良さを失いたくない。これまで通り一緒にいて充実した時間を過ごせたら、それで十分だ。
でも、もしもモクさんが他の女の人と抱き合うようになったら、どうだろう。あたしはそれでも平気な顔をして、モクさんの弟子を続けられるだろうか。
いや、きっとそれは無理だ。あたしは、モクさんと生々しい関係になることには躊躇しているけれど、モクさんをずっと自分だけのものにしていたいのだ。
モクさんは、そのうち、どこかの女の人と抱き合うのだろうか。
そんなことをつらつらと考えている間に、若葉は眠りに落ちてしまったらしい。惣一郎がリビングのドアを開ける音で目覚め、半身を起こした。
「あ、モクさん、おはよう。」
惣一郎は若葉を見て、「お、来てたな」とかすかに笑う。惣一郎はいつも、リビングに入る前に洗顔も身づくろいもすっかり済ませ、若葉に対し、だらしない姿を見せない。今日もジムに行くためにTシャツと黒ジャージを身付け、灰色の長い前髪をすっきりと後ろに掻き上げている。
若葉は、惣一郎の綺麗に刈り込まれた襟足を眺めながら、いつものように、思ったままを口にした。
「モクさんは、女の人に興味ないの?」
惣一郎は、ガスコンロにミルクパンを載せて白湯を作っているところだったが、お前は朝っぱらから何を聞いてんのや、という呆れ顔で、ゆっくりと振り返った。
「モクさんが女の人と一緒におるところ、見たことがない。」
「…そんな暇ないからな。」
「女の人と一緒にいたい、とは思う?」
「…いや。」
若葉の質問攻めを打ち切るには、中途半端にはぐらかさず、率直に回答するのが一番早い。そのことを、惣一郎はこの一年半で十分に学習している。惣一郎は白湯を二つのマグカップに注ぎながら言う。
「…俺は、一生独りで生きていくって決めてる。」
「そうやの?ほんまに、独りがええの?」
「…ああ、独りがええな。」
「ほんまは、寂しがり屋さんやのに?」
「…寂しがりはお前やろ。」
「モクさんだって、ほんまは、誰かと一緒にいたいと思うてるでしょ?」
「…いや。独りでええ。」
「あたしとずっと一緒にいたいとは、思わへんの?」
「………」
若葉の問いが、別の方向へとずれ始めている。ちょっと厄介なことになってきた、と思いながら、惣一郎は言葉を慎重に選ぶ。慎重に選んだつもりで、地雷を踏む。
「…お前と一緒にいると楽しいとは思うけど、ずっと一緒にいたい、とは思うてない。」
「そうやの…?あたしと、ずっと一緒にいたくはないの…?」
「…さっきも言うたやろ。俺は、一生独りで生きていくって決めてるって。」
惣一郎の素っ気ない回答に、自分が惣一郎の人生から締め出されたように感じ、若葉は傷つく。
惣一郎の人生は、そんなに自己完結しているのか。ちょっとくらい、若葉とずっと一緒にいたい、という気持ちがあってもいいのではないか。
惣一郎は白湯が入ったマグカップの一つを若葉の前のコーヒーテーブルに置き、自分は立ったまま、もう一つのマグカップを啜っている。マグカップもまた真っ白で、惣一郎の部屋と同様、何の装飾もない。
若葉は急に、その取っつきにくさが憎らしくなり、なんとか遣り込めたくなった。
「ママがあたしに、モクさんと一緒に住んだらどうや、って言うてるの。」
「…それは、ないな。」
「ない?あたしは、それもええな、って思うてるけど?」
「…お前の寝場所がないやろ。」
「モクさんと同じベッドで寝ればええやない。」
惣一郎が、ぎょっとして若葉を見下ろす。
若葉は、しなを作るようにしてソファに座り、惣一郎を扇情的な眼差しで見上げている。まだ結い上げていない長い黒髪が、流れるように肩に落ちている。薄い絽の長襦袢の下から、若葉の女らしい肢体が透けて見える。長襦袢の裾から伸びる素足が、白くなまめかしい。
これまで何も意識せずに当たり前のこととして見慣れていたものが、急に様相を変えて迫ってきて、惣一郎はギクリとする。
「モクさんのベッド、セミダブルやもの。モクさんが腕枕してくれたら、あたしもギリで入れるでしょ?」
「…いや、ちょっと待て、若葉。」
惣一郎はマグカップを片手に持ったまま、狼狽している。
「…俺はお前のこと、そんな風に見てへんぞ。」
「そんな風って?」
「…いや、そやから、俺はお前のことを、女として見てない。実の娘みたいに思うてる。」
「そんなん、わかってるわ。」
なんとなく察しているのと、面と向かって言われるのとでは、傷つき度合が全く違うのだと、若葉はこのとき思い知る。若葉は次第に、気色ばんでくる。
「あたしも、モクさんのこと、ほんまの父親みたいに思うてるもの。ほんまの親子なんやから、抱き合って寝ても平気でしょ?」
「…お前、もう…そんなアホなこと考えとらんで、さっさと男を作れ。」
「なんで急に、そういう話になるの?」
「…こないなおっさんと一緒に住んだりしたら、他の男が近寄らへんなってまうやろ。お前は早う真っ当な男と一緒になって、ちゃんと幸せになれ。」
「なんで…?」
若葉の眼から、涙がポロポロとこぼれ落ちる。
「なんでそないな意地悪いこと言うの?モクさんは、あたしと一緒におるのが、そんなに嫌やの?あたしと一緒におるのが嫌やから、一生独りで生きていくとか、一緒に住みたないとか、早う男を作れとか、言うの?」
…ああ、またこいつは、三段跳びで変な方向に考えを進めて、勝手に傷ついている。いや、先に三段跳びで話を進めてしまったのは、俺の方か。
惣一郎は若葉の涙をしばらく見つめていたが、やがてラグの上に腰を下ろして胡坐を組み、自分のマグカップをコーヒーテーブルの上に置いた。
そして、どこまでどう話せばよいのかを思案していたが、やはり中途半端にはぐらかすのは良くないのだろうと思い、ひととおりのことを話すことにした。
「…あのな、若葉。」
惣一郎は、ソファに座る若葉の顔を見上げながら言う。
「…俺は十六のときに、つまらんことで逆上して、人を殺しかけたことがある。この話は、みんなも知ってる。お前も誰かから聞いたことがあるやろ。」
若葉は無言で小さくうなずく。
「…俺は、逆上すると何をしでかすかわからへん。自分でもコントロールできへん。若い頃は何べんも暴力沙汰で捕まって、母親をさんざん苦しめた。
俺はもう、自分のせいで家族が苦しむところを、二度と見たくない。
また何かしでかして、大事な人を巻き添えにするんとちゃうか、って思いながら生きていくんも、しんどい。そやから、一生独りのまんまでいようと決めてんのや。」
「………」
「ママの占い通り、ほんまにお前に運命の人がおるんやとしたら、それは絶対に俺やない。俺はお前の父親代わりや。お前が運命の人と出会うまでの、期間限定のツナギみたいなもんや。お前は早う真っ当な男を見つけて、一緒になって、ちゃんと幸せになれ。ええな?」
「……モクさん。」
若葉の眼から涙が溢れる。涙とともに、切実な感情が溢れてくる。若葉は制御不能になって、取り乱したように泣きながら言う。
「そんならモクさんは、あたしがおらんなっても、全然平気やの?あたしのことは、どうでもええの?あたしは、モクさんとずっと一緒にいたいと思うてんのに、なんでモクさんは、あたしとずっと一緒にいたいって言うてくれへんの?」
興奮して激しく言い募っているうちに、若葉は今すぐにも惣一郎が離れていくような気持ちになって、絶望的な寂しさに飲み込まれそうになる。
「モクさん、ぎゅうっとして。」
「…若葉。」
「お願い、ぎゅうっとして。」
「………」
惣一郎は切実な表情で若葉の泣き顔を見つめていたが、床から立ち上がってソファに座り、若葉の要望どおり、抱きしめてやった。若葉も惣一郎を強く抱きしめ返しながら、泣きじゃくる。
「モクさんがあたしの運命の人やないんやったら、あたし、運命の人なんかいらへん。これまで通り、モクさんと一緒にいる。モクさんと一緒にお店をやって、一緒にご飯を作って、一緒に美術館に行く。そやからモクさん、ずっとあたしと一緒にいるって約束して。」
「…わかった。わかったから、もう泣くな。今から稽古やろ?目が腫れたら困るやろ?」
惣一郎は若葉の背中をさすってやる。
「…もう、泣くな。若葉が寂しくなるようなことは、二度と言わんようにするから。」
◆
その日の夜。フードの仕込みを終え、若葉を自宅まで送って戻ってきて、惣一郎は半身浴をしながらぐったりとした。
「…今日も疲れた…。」
若葉はあの後、しばらくの間、泣き続け、泣くだけ泣いて気が済んだのか、「あかん、遅刻する」と呟いて惣一郎から離れ、腫れぼったくなったまぶたを保冷材で冷やしながら絽の小紋を着付けた。
「ごめん、モクさん、手伝ってぇ」と言うので、惣一郎も手を貸してやる。そうして若葉は身支度を整えると、「ほな、またお店でね」と言って急いで部屋を出て行った。店で落ち合う頃には、何もなかったようにケロリとして、いつものようにフードの仕込みを手伝い、ご機嫌で自宅に帰って行った。
若葉のそういう激情型の性格に、もはや惣一郎は驚かない。ただ、翻弄されて疲れているだけだ。
午前中のルーティンもすっかり乱れてしまい、いつもよりだいぶ遅れてジムの入口をくぐると、タケシのアホが「なんや、寝坊か。さてはお前、ゆうべは随分と励んだな」と本当にくだらないオヤジネタをふっかけてくるし、自宅に戻ると、仕入先の業者が少し早めに到着していて、玄関先で食材を持ってオロオロしながら待っているし、惣一郎にとって不本意なことばかりが続いた。
惣一郎は洗ったばかりの長い前髪を掻き上げながら、深くため息をつく。
…サチエさんの店で髪と化粧を作り込み、ぴしりと袋帯を締めてカウンターに立つ若葉は、惚れ惚れするほどに成熟した女だ。言動もしっかりと大人びて、申し分ない。
割烹着をかぶってフードの仕込みを手伝う若葉も、なかなか優秀な助手だ。一つでも多くをものにしようと、食らいついて来る。
それなのに、俺の部屋でくつろいでいる時の若葉は、あまりにも幼い。まるで、出会った頃から何も成長していないかのようだ。
身に付ける衣服によって、立ち居振る舞いだけでなく人間性までも変わってしまうのか。あるいは、日頃の緊張によって蓄積されたストレスが、気を緩めた瞬間に噴き出してしまうのか。
特に、若葉の寂しさや自信のなさを刺激すると、こちらがたじろぐほどに激高する。今日はあんなに泣かせてしまって、可哀そうなことをした。
でも、正直なところ、そういった若葉の振れ幅の大きさが、俺はそんなに嫌いではない。普通の男ならうんざりするのかもしれないが、俺は、若葉の予測不能な言動に振り回されることを、心のどこかで楽しんでいる。
きっと、俺自身が振れ幅を小さくするように自制して生きているから、若葉に振り回されることが、丁度よいガス抜きになっているのだろう。
仮に、ママの入れ知恵に従って、俺の部屋で若葉と一緒に暮らしてみたら、どうだろう。ただ一緒に暮らすだけなら、とても楽しそうだ。
でも、若葉と同じベッドで眠るとなると、話は別だ。俺が若葉を実の娘と思って、若葉が俺を実の父親と思っていても、俺は耐えられなくなって、若葉を抱いてしまうだろう。
そうしたら、若葉を深く傷つけて不幸にしてしまう。若葉を不幸にしたら、当然、俺も不幸になる。それくらいなら、リビングのソファをソファベッドに買い替えて、そっちに俺が寝たほうがいい。
いや待て、そうじゃない。若葉と一緒に暮らす算段を立ててどうする。若葉にはちゃんと幸せになって欲しいのだ。俺みたいな男からさっさと巣立って、ちゃんとした男と一緒になって欲しい。
ママは占いで「近いうちに神様がお膳立てしてくれる」と言っていたが、あの話は一体どうなったのだ。もう一年以上経つじゃないか。若葉自身も、占いの件をすっかり忘れてしまっているみたいだ。
もうそろそろ、若葉を俺から引き離して欲しい。そうでないと、俺は独りに戻るのが辛くなってしまう。
(続く)
《前回のお話はこちら》
【第1話はこちら】