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短編I | 迷い猫 1/2
あれはいつのことだったろう。俺は小学三年生だったか。
住んでいたアパート近くの茂みに、生まれて間もない仔猫が捨てられていた。その仔猫は段ボール箱の中で身体を震わせながら、母親を求めてミイミイと小さく泣いていた。家に連れて帰ってやりたいと思ったが、当時の俺には無理な話だった。
俺は、実の父親の顔を知らない。
物心ついた時には、古くて小汚い木賃アパートで母親と二人暮らしをしていた。母親は職を転々としていたが、俺が小学生になったと同時に水商売の世界に入った。アパートにいろんな男が出入りし始めたのもその頃からだ。若い男もいれば年老いた男もいた。気弱な男もいれば凶暴な男もいた。男が入れ替わるたびに母親の化粧は濃くなり、美しかった容貌は次第に荒んでいった。
仔猫を見つけた頃、俺の家には凶暴な男が入り浸っていた。母親と男は毎晩のように派手なケンカを繰り広げ、そのたびに俺も巻き添えをくらって殴られた。とてもじゃないが、仔猫を連れ帰れる状況ではなかった。
◆
2年前の9月の下旬、朝晩の空気がヒンヤリし始めた頃。
閉店後にカウンターを片付けていると、店のドアが静かに開き、若い女が顔を覗かせて囁くように尋ねた。
「すみません、今から一人、いいですか?」
…しまった。ドアのサインを「CLOSE」にし忘れていたか。
時計を見ると、2時を10分過ぎている。俺は拒絶の意図を込めて女を黙殺した。しかし、俺の意図に反して、女は俺の黙殺を“承認”と受け止めたらしい。女は少しホッとした表情を浮かべてスルリと店に入り、こちらの誘導を待たずにカウンタ―席に腰かけた。そして、首をかしげるようにして俺の顔を見上げながら、「ミモザをください」と小さく言った。
◆
その女の顔には見覚えがあった。夏の終わり頃に男に連れられて、この店に来たことがあるはずだ。
小柄で華奢な身体つき。あどけなさの残る小さな顔。鈴を張ったような大きな目。ツンと尖った小さな鼻。それに合わせたかのような小さな唇。ミルクティー色の長い髪。
少し首をかしげ、か細い声で訥々と話す様子は、子供の頃に見かけたあの仔猫とそっくりだった。露出度の高い服装にピンヒール、そして派手めの化粧から、駅前のキャバクラかガールズバーで働いていることが窺い知れた。女は男に甘えるように話しかけながら、何杯かのロングカクテルを飲み干した。そして男に腕を絡めて店を出て行った。
◆
そんなことを思い出しながら、俺はミモザを作り、女の前に置いてやった。女はカウンターに両肘をつき、白く細い指をそろえてグラスを持ちあげると、グラスの縁にゆっくりと唇をつけた。そして、聞こえるかどうかの小さな声で「…おいしい」と呟いた。
ミモザをちびちびと飲み続ける女をカウンターに残し、俺は黙々と店内の片付けを続けた。ソファ席を拭き清め、床にモップをかけ、トイレ掃除を済ませて戻ってくると、女はカウンターに突っ伏していた。肩をゆすっても反応しない。
…眠ってしまったのか。
困ったことになったと思いながら、顔を覗き込んだところでハッとした。女の目頭に涙が溜まり、ツーと細く流れ落ちたのが見えた。
…泣きながら眠ったのか。
しばらくの間、俺は女の寝顔を見下ろしていたが、やがて、起こすのをあきらめた。
俺はドアのサインが「CLOSE」になっているのを再確認し、内側から鍵をかけた。そして、窓にロールスクリーンを下ろし、女の小さな身体を抱き上げて、ロングソファに運んだ。ロングソファは広めのツーシーターで、幅150センチといったところだ。女の身体を横たえてみると、ちょうどすっぽりと納まった。頭の下にクッションを入れてやり、ピンヒールを脱がせ、短いタイトスカートの裾を整えると、戸棚から非常時用の毛布を取り出して、そっとかけてやった。
…さて、俺はどうする…。
店に女を残したままで帰宅するわけにもいかないだろう。…とは言え、ロングソファは店に1台しかない。仕方なく俺は、一人掛けのソファを店の隅から引っ張り出し、女の顔が見える位置に据えた。大柄な俺には背もたれが低すぎるし、肘掛部分が木製なのでいまいち落ち着かないが、今夜はここに座って眠るしかないだろう。
俺はもう一度、女の呼吸と脈が安定していることを確認した。そして照明を落とすと、小さなブランケットを腰に巻き付けて、一人掛けソファに腰を下ろした。暗くなったことで聴覚と嗅覚が過敏になったのか、女の小さな寝息が耳に届き、甘い香水が鼻先まで漂ってきた。ふと俺は、15年前に死んだ母親のことを思い出した。母親と一緒に眠った記憶はないのに、母親の肌の温もりを思い出した。
俺は女の寝息と匂いに包まれながら、ウトウトと眠りについた。
◆
女が動く気配で、俺は目を覚ました。
目を開くと、女はロングソファの上に起き上がり、膝の上で毛布をいじりながら俺を見つめていた。時計は9時を指し、ロールスクリーンの隙間から明るい光が差し込んでいた。
「あの、ごめんなさい。私、寝ちゃったみたいで…」
女は顔を赤らめながら、囁くように言った。俺は半分寝ぼけたまま、女の顔を見た。身体に合わないソファに長時間座っていたせいで、背中や腰が痛む。
俺が黙ったままなので、居たたまれなくなったのだろう。女は慌て気味にピンヒールを履いて立ち上がると、カウンターの上のバッグを手に取った。そして、ドアのサムターンを開錠すると、半身をひねって振り返り、囁くように言った。
「マスター、泊めてくれてありがとう。また来るね」
仔猫のような肢体をスルリと滑らせて、女はドアから出て行った。俺は一人掛けソファに座ったまま、ぼんやりとした。そうしてしばらく経ってから、ミモザの代金を取り損ねたことに気付いたのだった。
◆
それからちょうど1ヶ月後。女は再び店にやって来た。
「CLOSE」のサインをかけているのにも関わらず、女は静かにドアを開き、「今からいいですか?」と囁いた。俺が黙殺したにも関わらず、やはり女はそれを“承認”と受け止め、少し嬉しそうな顔をしながら店内に入って来た。そして勝手にカウンター席につくと、仔猫のように俺を見上げながら「ミモザをください」と小さく言った。
俺は黙ってミモザを作り、女の前に置いてやった。そして、ミモザをちびちびと舐め続ける女を放ったらかしにして、店内を片付けた。その間に、女はまたしても、カウンターに突っ伏して眠ってしまった。仕方なく俺は女をロングソファに運び、身体に合わない一人掛けソファに腰を下ろすと、女の寝息と匂いに包まれながら、浅い眠りについた。
その翌月の夜も、女は店にやってきた。
「CLOSE」のサインなど見なかったような態で店内に滑り込み、仔猫のように俺を見上げながら「ミモザをください」と言った。そしてやはりカウンターに突っ伏そうとしたので、俺は黙ったまま女の腕を引っ張ってソファまで連れて行き、毛布をかけてやった。
更に、その翌月の夜も、女は店にやってきた。
女は悪びれもせず、仔猫のように首をかしげ、「今夜も泊まっていいですか?」と俺に尋ねた。俺は黙って毛布を渡し、ついでに厚手のスウェットパンツも渡してやった。もう12月だ。毛布を被るとはいえ、ミニスカートでは足元が冷えるだろう。俺もブランケットでは寒いので、非常時用の毛布をもう1枚、買い足しておいた。一人掛けソファも、俺の体型に合うものに買い替えた。
女はいそいそとスウェットパンツを履き、ロングソファに自ら横になって毛布にくるまった。俺は女の顔が見える位置に一人掛けソファを引きずり出し、毛布にくるまって腰を下ろした。
灯りを落としてしばらく経った頃、女が呟くように言った。
「マスター。なんで私がお店に泊まるのか、訊かないの?」
俺は黙ったまま女の方を見た。暗がりの中で、女の目が青く光って見えた。
「私のことには、興味ない?」
…興味がないわけではない。不用意に関わって、傷つけてしまうのが怖いだけだ。
俺は黙ったまま、女の光る目をじっと見つめた。
女からも、俺の目が見えていたのだろう。目を見開いたまま、女は言葉を続けた。
「私はね、マスターのことがお父さんみたいに思えるの。あ、お父さんって言っても、本当のお父さんじゃなくて、想像のお父さんね。私の本当のお父さんは、とっても怖い人だから」
…お父さん、か。確かに俺は、この女の父親と大して歳が違わないのかもしれないな。
「マスターはね、私の想像の中の、理想のお父さんにそっくりなの。何も言わないけれど、優しくて温かいの。こんな風に私が押しかけても、黙って許してくれる…」
女の声が少し震えて、一段と小さくなった。
「ありがとうね、マスター…」
そう呟いて、女は仔猫のような目を閉じ、小さな寝息を立て始めた。
◆
その翌月も女は店にやってきた。翌朝目を覚ますと、女は俺に言った。
「マスター、お願いがあるの。少しの間、お金を預かって欲しいの」
俺は一人掛けソファに座ったまま、小さく頷いた。女はブーツを履いて店の外に出ると、10分後に戻って来て、俺に封筒を手渡した。中を覗くと10万円が入っていた。
「あさって取りに来るから、それまで預かってて」
…俺を信用して金を預けるなんて、大丈夫なのか?
そんな表情で女の顔を見ると、女はこっくりと頷いた。そして、「また来るね」と言って、スルリと店を出て行った。
その2日後、女は約束どおり店に来た。
封筒を手渡そうとすると、「明日の朝でいい」と女は言った。俺たちは互いにソファに陣取って一晩過ごした。眠りにつくまでの間、女は他愛もないことを、小さな声で楽しそうにしゃべった。俺は黙って聞いていたが、不覚にも、時折小さく笑ってしまった。
翌朝、女は俺から封筒を受け取ると、「またね」と囁くように言って、スルリと店を出て行った。
(つづく)