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鳴海、『女であること』を語る

『女であること』とは、川端康成先生が昭和30年代に新聞連載した小説のタイトルである。数年前、行きつけの書店にこの文庫本が平置きで積まれており、思わず、そのタイトルに惹かれて購入した。
紀伊国屋書店HPによると、内容説明は下記のとおりだ。

女人の理想像に近い弁護士夫人市子や、市子を同性愛のように慕いながら、各自の恋愛に心奥の業火を燃やす若い二人の女性を中心に、女であることのさまざまな行動や心理的葛藤を描いて女の妖しさ、女の哀しさをみごとにとらえた名作。ここには、女が女を知る恐怖、女の気づかぬ女の孤独と自負が、女の命のなまなましさと無常の美とをたたえながら冷酷に照らし出されている。

紀伊国屋書店HPより

「女の妖しさ、女の哀しさ」…そうなのか?
きっとこの紹介文を書いたのは男性なのだろう。それも、昭和の時代の男性だろう。令和の私が読む限り、書かれているのは極めて一般的な女性の情動。これが「女の妖しさ、女の哀しさ」と捉えられるなんて、昭和というのは、女性にとって随分と窮屈な時代だったのだな、と改めて思う。



さて。私がなんでこんな話を書いているのかというと…
この2週間ほど、極めてストレスフル(仕事でね)な毎日を過ごし、やっとこさ、お気楽な金曜日を迎え、アルゼンチンの赤ワインを飲みすぎてベロベロに酔っ払っているからだ。

目の前では、定期テスト中の高2の次男が一心不乱に勉強をしている。すまんのう、こんな母親で…と、心の中で詫びる。

本日はこんな具合のだらだらとしたガールズトークなので、「そういうのはちょっと苦手…」と言う方は、是非ここで引き返していただきたい。
(ダラダラと続いても見苦しいだけなので、3,000文字くらいで終らせようと思う)



急に秋めいてきたからだろうか。

この数日、いろんな女性noterさんが、自身の「女の哀しさ、女の寂しさ」について書いている。私と同年代の女性もいれば、一回りほど歳下の女性もいる。
私も先日、短編の中で、なんとなく、そんなことについて書いた。だが、この感傷が女性のあいだで一般的かと言うと、実はそうでもない。


先日、職場の飲み会で、どうしてそうなったのかは覚えていないが、夫婦関係の話になった。私より5歳下の女性(既婚者で二児の母)が、さも当たり前といった口調で言った。

「うちは子作りのときの、しかも排卵日前後にしか、夫婦関係を持ったことがない。そりゃもう、ちゃんと計算をして、ドンピシャを狙って」

私はびっくりした。本当にびっくりした。

「えええ!?それ以外には全然ないの?あんたたち、なんで結婚したの?」

そう言うと、今度は先方がびっくりしていた。そのことで私は更にびっくりした。…あれ?私がおかしいのか?

このことを夫に話したところ、夫も職場で似たような話を聞いたらしい。

「ちょっと前に、若い子らが職場結婚したんやけど、しばらくして離婚してもうた。どうやら、奥さんが旦那さんを全く受け入れられへんかったらしい。そういうのは結婚前に話しとかなあかんよな」

確かに、既婚女性であってもそういう行為に強い忌避感を持つ人がいる。生殖活動以外で性的関係を持たないとは、まるで敬虔なカトリック信徒みたいだな、と思うが、生理的に無理、という女性側の気持ちもわからないではない。

先述の「結婚しても旦那さんを受け入れられなかった女の子」は、きっと「結婚すれば自分も変われるはず」と思っていたんじゃないだろうか。でも、あの行為はイマジネーションに助けられる部分がかなり大きいので、それを持たないままでは、ひたすら不気味で恥辱で苦痛でしかないだろうと思う。
幸か不幸か、私の場合、大学女子寮での下ネタトークが激し過ぎて、各自の経験談なんかも「そこまで話さんでも」というくらい赤裸々過ぎて、こんな風に語られては相手の男性があまりに気の毒すぎる、というくらいの話を毎晩聞かされ過ぎて、結果、私は多少のどぎつい話を聞いても全く驚かない。
だが、そういう耳年増になる機会もなく、純粋に育ったお嬢さんにしてみれば、男性とそういう行為に及ぶのは、自分がエイリアンに侵食されるような恐怖体験なんじゃないだろうか。


…ええっと、何の話だっけ。
そうそう、「女の妖しさ、哀しさ」の話だ。
特に、多くの既婚女性が35歳以降に感じるようになるであろう、「女の寂しさ」の話だ。

妻である自分のことを「女」と見なさなくなった旦那が、他の女性には手を伸ばす、その「手」の話だ。たいていの女性noterさんは、「男性の手」に惹かれ、「男性の手」に寂しさを感じている。

なぜ、女性は「男性の手」が気になるのだろう。
そこに、目に見えるものとしての性差を感じ取りやすいのだろうか。恋愛時代に、一番最初に触れたいと思ったのが「彼の手」だったからだろうか。確かに、「男性の手」はとても魅力的だ。

だがしかし…私は、自分の手を見る。
残念ながら、私の手は、男性そのものだ。
大きすぎて、男性との性差を全く感じられない。

もう何度も書いたことだが、私は身長が174センチもある。
これまでことあるごとに(飲み会とかね)いろんな男性と手の大きさを比べてきたが、私よりも手が大きかった人は、たった一人、巨漢の先輩しかいない。それくらい、私の手は大きい。指は細めなのだが、長さがたっぷりとある。
ちなみに足も大きい。26センチもある。

そんな訳なので、「男性の手」を見ても「自分の手」にしか見えない。
手だけでなく、全身の骨格もがっちりしているので、普通の男性と抱擁しても、自分自身と抱擁しているような錯覚に陥る。男性と目線が同じすぎて、キスをしてるんだか、出会いがしらにぶつかってるんだか、よくわからない。

思えば私は、この身体性がゆえに、少女時代から「女の哀しさと寂しさ」をひっそりと抱いてきた。
性格のキツさも相俟って、10代の頃はずっと「恋愛対象外」と見なされてきた。だから、周囲のフワフワと小さくて可愛い女子がとてもうらやましかった。



ええっと、何の話?
そうそう「女の哀しさ、寂しさ」だ。
駄目だな、今日は終始グズグズだ。全く冴えない酔っ払いだ。

明日の朝にこの記事を見たら、私はきっと、あまりの下らない内容に驚愕して、即座に削除を押すだろう。なので、この与太話にここまで付き合ってくださった方々は、削除覚悟で「スキ」をしてほしい。否、このまま読まなかったことにしてスルーしていただいても構わない。もしもこの記事が削除されていなかったら、仕方がない奴だと苦笑してほしい。


…で、こんな具合に、自分が男なのか女なのか、よくわからないままでアラフィフを迎えている私。最近書いている連載?小説でも、「仔猫」よりも「マスター」に近いキャラの私。職場ではパンツスーツで闊歩して完全に「男」な私。
だけど、家に帰れば「妻」でもある。

普段の自分が男か女かわからなくても、男性の手で触れられている時だけは、自分は確実に女なのだな、と実感する。
独身時代、思わず私が「女に生まれて良かった」と口走った時、のちに夫となる男性は、私の額に自分の額を寄せて、「これからも、ずっと、そう言い続けていてほしい」と言った。今思えば、あれが求婚の言葉だったように思う。

だから、そういう機会が失われてしまうのは、本当に寂しい。別にそういう行為に及ばなくてもいい。隣で眠っている時に、そっと手をつないでくれるだけでいい。落ち込んでいる時に、肩に手を添えてくれるだけでいい。
でも、本当のところは、しっかりと抱き締めてほしい。

この記事を読んでくださっている男性には、自分の奥さんもそんな寂しさを抱えているかもしれないと、少し想像してみて欲しい。



さて、3,000文字を超えたので、今夜はこれで、おーしーまい。







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