【創作大賞2024恋愛小説部門】早春賦 #06「花まつりの夕暮れ」
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四月になった。
年度初めとあって、常連客が新人を引き連れてひっきりなしにやってくる。若葉の運命の人はまだ現れず、このところ、若葉は泥酔していない。
四月上旬の花まつりの日。若葉が出勤すると、まだママの姿はなく、モクさんだけがカウンター内にいて、器用な手つきで氷をカットしていた。
若葉は、モクさんと二人切りだとなんとなく居心地が悪い。まるで若葉がそこにいないかのように振舞うモクさんに、じわじわと傷つく。
…泥酔している時のあたしには、あんなに親切にしてくれるのに、なぜ普段のモクさんは、こんなにも冷淡なんだろう。お姫様抱っこしてもらったのは夢だったのだろうか。
そんなことを考えつつ、若葉はモクさんと微妙に距離を取りながら、開店準備を進めていく。
開店十五分前になっても、ママは現れなかった。
若葉の中で不安が大きく膨らみ始め、居ても立ってもいられなくなる。店内を歩き回りながらラインにメッセージを入れるが、既読にならない。
ママが通う美容室に電話して確認すると、馴染みの美容師のサチエさんが、「お喋りに夢中になっていつもより時間がかかったから、それで遅れてるんと違うか」と言う。
「それにしても、ちょっと遅すぎるんちゃう?…ね、モクさん。ママ、遅すぎへん?」
若葉は不安のあまり、モクさんに話しかけた。普段は全く反応してくれないモクさんも、今回は若葉に小さく頷き返してくれる。
「モクさん、どうしよう。ママに何かあったら、どうしよう。あたし、外を見てくる。」
若葉はスマホを握って廊下に出ると、三階の非常口から屋外階段の踊り場に降りて、外を見回した。
群青色にくすんだ空。煌々と輝くネオン。路上へと視線を落としたところで、誰かがよろけてうずくまったのを認めた。見慣れた小豆色の道行コート。
「…ママ?!」
若葉は慌てて階段を駆け下りた。十三センチヒールのせいで、時折転げ落ちそうになる。なんとか路面にたどり着き、駆け寄ってママの躰を抱き起こす。ママは冷や汗をかいて、苦しそうに顔を歪ませながら、胸を押さえている。
若葉は激しく動揺しながら、モクさんのスマホに電話をかけた。
「モクさん、ママが大変、すぐに来てぇ!」
「…ママは、どうしてる?」
電話の向こうのモクさんの声が、やけにゆっくりと落ち着いている。
「なんか、なんか、苦しそう。手で胸を押さえてる。」
「…救急車は、呼んだか?」
「まだ呼んでへん。」
「…俺が呼んどく。お前はママに付いとけ。」
電話が一方的に切られた。
若葉はママの着物の胸元をくつろげようとするが、きつく縛られていて思うようにならない。
若葉は気が動転して、声を上げて泣き始めた。
ママ、ママ。どうかお願い、死なないで。神様、ママを助けて。誰か、誰か助けて。
「…これを、あっちに敷いてこい。」
気がつくと隣にモクさんがいて、若葉に毛布を数枚押しつけている。若葉は毛布を受け取って、雑居ビルの軒下に重ねて広げた。
モクさんはママを抱き上げて運び、若葉にひざ枕をするよう促した。
「…帯を外すから、支えとけ。」
モクさんは低く落ち着いた声で若葉に指示を出し、若葉はうんうんと頷いて、ママの上体を抱きかかえた。モクさんは慣れた手つきで何本かの紐をほどき、スルスルと帯を外すと、ママの上体を若葉から受け取って、着物と長襦袢を締めつけている伊達締めを緩めながら、
「…ママの、バッグの中を見てみ。ピルケースが、あるかも知れへん。」
と、再び若葉に指示を出した。若葉はバッグを逆さにし、中身を全部出して漁るが、それらしきものがない。
若葉は再び泣き出した。
「ない。そんなん、ない。ああ、どうしよう、どうしよう。モクさん、ママが死んじゃう。」
「…大丈夫や。ママは死なせへん。」
そう言うモクさんこそ顔面蒼白だが、懸命に平常心を保ちながら、ゆっくりと若葉に声をかけ続ける。
やがて救急車が到着すると、モクさんはまるでコンビニにでも行くような軽い調子で、
「お前は店で待っとれ。ちゃんと鍵をかけとけよ」
と言った。若葉は「あたしも一緒に行く」と泣いて訴えたが、モクさんは取り合わなかった。それはモクさんなりの若葉に対する優しさで、ママに万が一のことがあった場合、そばに付いていた若葉が自分自身を責めないように、との配慮だった。
このことを若葉が知るのは、随分と後のことである。
搬送先の病院で心筋梗塞と告げられたママは、その場で初期治療を受け、しばらく入院することとなった。
救急医から説明を受けたモクさんが店に戻ってきた時には、もう0:00を回っていた。
一旦、若葉には病院から電話をかけて、病状を説明しておいたが、若葉は店内をオロオロと歩き回っていたのだろう。モクさんが入口のドアを開けると、涙目で駆け寄って、モクさんにしがみついた。
「モクさん、怖かった。めちゃ怖かった…。」
…怖かったよな。
モクさんは無言のまま、若葉の背中をさすってやった。
本当に、怖かった。自分の目の前で、大事な人が死にかけているのを見るのは。
その夜。若葉をマンションまでタクシーで送り届け、そこから自宅へと移動中、モクさんはスマホをじっと見つめている。
…ママのことを、親父さんに連絡しないといけない。親父さんは多忙な人だから、ショートメッセージが一番良いだろう。
モクさんは、ママの症状、入院先を手早くフリック入力して、親父さんの電話番号に送信する。それから少し考えて、「今後も俺への連絡は、電話ではなくショートメッセージでお願いします」と追伸を打つ。
それから…、とモクさんは思案する。
…これから当面の間、ママ不在で店を回さないといけない。あの幼く頼りない若葉と二人切りで。常連客たちは、今まで通り、うちの店に通ってくれるだろうか。
こういう時のために相応の貯えはしてあるから、すぐに経営が傾くことはないだろう。だが、これからも若葉に給料を支払い続けるためには、店を安定軌道に乗せ続けなければならない。店を安定軌道に乗せ続けるには、若葉にしっかり仕事をしてもらわなければならない。
「…あいつを路頭に迷わす訳にはいかへんからな。」
そう心の中で呟きながら、モクさんは車窓の外をぼんやりと眺めている。
幸いママの症状は落ち着き、入院から三日後、集中治療室から一般病棟に移ることができた。若葉は可能な限り見舞いに通う。お店は十五日まで臨時休業となっている。
営業再開の二日前。モクさんから若葉に電話がかかってきた。若葉が出たとたん、モクさんは何の前置きもなく本題に入った。
「…お前、今度から着物を着て来い。」
「は?」
いきなりのムチャぶりに若葉の声が上ずる。
「え、着物って、何?あたし、そんなん持ってへんし、着たこと…」
「…あさっての15:00に、サチエさんの店な。」
モクさんは、若葉の言葉を最後まで聞かず、早々に電話を切った。
(続く)
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