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【創作大賞2024恋愛小説部門】早春賦 #20「親父さんと惣一郎」

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六月の第二定休日。
惣一郎は、ひそかに店を開けた。店内を丹念に清め、青磁の花瓶に純白のアナベルをたっぷりと生ける。この日に限っては店に来ないよう、事前に若葉に伝えてある。

十九時を過ぎたところでドアが開き、一人の男が入ってきた。惣一郎は男に対し、黙ったまま会釈をした。

「久しぶりやな。前回会うたのは、二月やったか。」

男は、柔和な細い目に銀縁の丸眼鏡をかけ、中肉中背の体躯に仕立ての良いジャケットをまとっている。丁寧にハサミを入れたロマンスグレーを櫛目も鮮やかに撫でつけ、ムスク系の香水をほのかに漂わせている。そうやって身綺麗な格好をして、背筋を伸ばして颯爽と振舞う姿は、とても七十代半ばに見えない。

男は名のあるグループ企業の会長として、複数の大企業の社外取締役として、また大層な艶福家として世に知られている。普段は東京のグループ本店で過ごすが、年に数回、大阪本社にやってきて、夜には新地に顔を出す。 

惣一郎の店では、『スーさん』という通り名でくつろぐが、惣一郎は『親父さん』と呼ぶ。もっとも、惣一郎がそう呼びたい訳ではない。九歳のときに母親から命じられて始めた習慣を、今も続けているだけだ。

スーさんはカウンター席のスツールに座ると、惣一郎に向けて、細い目を一層細めた。

「今朝、日本に戻んてきたばっかしや。もう、役員の連中に散々こきつかわれて、かなわんわ。この店にも、ほんまは月イチくらいで顔出したいんやけど、なかなか、そうもいかへんで、すまんな。」

惣一郎は無言のまま、青い薩摩切子の小さな杯に透明な液体を注ぎ、スーさんの顔を見ずに差し出した。そして、別の杯にも同じ液体を注いだ。

二人はそれぞれの杯を右手に持つと、額の前に掲げてしばし黙祷し、一気に空けた。一年ぶりに飲むストレートのウォッカが、惣一郎の胃の中で熱く焼け付く。

惣一郎は、手元のシガーケースから葉巻を一本取り出して吸口をカットし、丁寧に着火して、専用の灰皿と共にスーさんに差し出した。スーさんはそれを取り上げてゆっくりと燻らせた。

「お前がこの店継いでから、もう十三年か。康子が倒れて出られへんなってからも、店は順調らしいな。若葉と二人で、うまいこと回してるそうやないか。」

惣一郎は何も答えず、琥珀色の液体が入ったテイスティンググラスを、スーさんの顔を見ずに差し出した。併せて、自宅から持参した心づくしの冷菜をガラスの平皿に盛り付け、やはり無言で差し出した。

帰国時の機内でよく眠れなかったからだろうか、スーさんは、皿にあしらわれた鮮やかな青もみじに見惚れながら、つい思いついたままを呟いてしまう。

「それにしても若葉は、ほんまにええ女になったな。前はやたらと露出したがるだけの、つまらん娘やったけど、ああして着物でくるまれると、却ってそそられる。オレがこないに忙しなかったら、もっと顔を見に来るのに、残念や。」

惣一郎は無言を決め込んでいる。スーさんは、はっとする。

「ああ、悪かった。せっかくの祥月命日に、こないな下世話な話をするもんやない。オレはどうも疲れてるみたいや。許してくれ。」

その後、スーさんは小一時間ほど一人で喋り、「また来るわ」と言って出て行った。カウンターの上を片付けながら、惣一郎はぼんやりと考えている。


…親父さんは、俺のことを本当の息子のように思っているらしいが、俺は長い間、親父さんのことを毛嫌いしていた。
親父さんは悪くないと頭ではわかっていても、俺と父親から母親の生身を奪い取り、俺と母親から父親の思い出を奪い取ったのは親父さんであるように思えて、心の奥底で恨んでいた。

もしかしたら俺は、あまりに有能過ぎる親父さんに大切な母親を横取りされて、小さい頃から強い劣等感と敗北感を抱き続けているのかもしれない。
あるいは、俺の父親から受け継いだ遺伝子が、親父さんに敵愾心を向けるように仕向けているのかもしれない。

俺が小学生の頃、母親と二人で過ごせるはずの休日には、いつも親父さんがやって来た。俺はまだ母親に甘えたい盛りだったが、母親の寝室には親父さんが入っていった。
母親もまた、息子の俺よりも親父さんを優先し、懸命に媚びを売っているように見えた。俺はこの二人の関係を、とても不潔でおぞましいと感じていた。

親父さんは、あちこちに愛人を囲っている。孫ほども年下の愛人もいる。俺にはそういう心理が理解できない。俺の母親と同じような立場の女を何人も作って、一体何が嬉しいのか。金も地位も権力もあると、そういうことをしたくなるのか。

ママもまた、親父さんの愛人の一人だ。夫と三人の子どもを捨てて情夫と駆け落ちした後、相手の男が早々に病死した上に多額の借金を残したため、途方に暮れているところを、親父さんに拾われたという。

親父さんは、俺の母親を最後まで支えてくれたし、俺が暴力沙汰を起こすたびに、水面下で奔走してくれた。死んだ母親からこの店を引き継いだ時も、何くれとなく世話を焼いてくれた。
そのことには深く恩義を感じながらも、俺は、どうしても親父さんを好きになれなかった。

だが最近、俺の心境は少しずつ変化している。俺と初めて会った頃の親父さんは、今の俺と同じくらいの年齢だったはずだ。

当時から親父さんは俺の世話を焼こうとし、俺は頑なに拒絶していたが、今、俺は若葉の面倒を見ながら、ふと、あの頃の親父さんはこんな気持ちで俺と接していたのではないか、と考えたりする。

休日のたびに俺の家に来ていたのも、ただ俺の母親と寝るためだけではなく、大人の男がいる家庭というものを俺に経験させてやろうという、親心みたいなものだったのではないだろうか。

無学で非常識な俺に対し、本をたくさん読め、と勧めてくれたのも親父さんだ。親父さんがああ言ってくれなかったら、俺は今でも、ろくでなしのままだっただろう。

俺に本を差し出した時の親父さんの気持ちは、今、若葉に本を差し出す時の俺の気持ちと同じだったのではないだろうか。


「会長、このままご自宅に向かってもよろしいですか。」

「ああ、そうしてくれ。今日はほんまに疲れた。しばらくは下の道を行ってくれるか。久しぶりやから大阪の街を見たい。ルートは任す。」

スーさんは迎えの車の後部座席に躰を埋めながら、助手席に座る秘書にそう指示を出した。車は曽根崎通を右折し、御堂筋へと向かう。恐らく市内の再開発エリアを一巡するつもりなのだろう。スーさんは車窓の外を眺めている。

こずえが死んで十三年。スーさんは、この愛人の顔をうまく思い出せない。彼女の容貌があまりに目まぐるしく変化したため、脳裏で一つの像を結ぶのが難しいのだ。


…こずえと出会ったのは三十五年ほど前。場所は新地の高級クラブだった。あの頃のこずえは二十代後半だったが、ほっそりとして、それなりに美人だった。三年前に夫を事故で失くし、小さな子どもを抱えているという。その薄幸な身の上が、儚げな風貌にぴったりと合わさって、オレはこずえに関心を抱いた。

当時のオレは、自分が立ち上げた幾つかの新規事業を、短期間で社の主力事業にまで育て上げ、万能感に溢れていた。本妻以外に付き合っている女が何人かいたが、その中に子持ち未亡人はいなかった。

オレはこずえを自分のコレクションに加えたいと考えた。実業家だった父親から多額の動産を相続したこともあり、オレはこずえの着物に対する執着心に付け入って、一見では出入りできない店に連れ回しては揺さぶりをかけた。

こずえの部屋で初めて惣一郎に会った時、彼は九歳だった。五歳で父親を亡くして以降、幼いなりに母親を守ってきたつもりだったのだろう。会って早々、オレの顔を暗い眼で睨みつけ、決して懐こうとしなかった。
オレはオレで、こいつの父親代わりになってやろうなどと安直に考え、惣一郎の誇り高さなどお構いなしに、彼の人生にずかずかと土足で踏み込んだ。

こずえの休みの日には部屋に泊まり、寝室でこずえと激しく抱き合った。隣室で眠る惣一郎がどんな気持ちでいるかなど、考えたこともなかった。当時のオレは、総毛立つほど傲慢だった。

惣一郎が凶暴になったのは、オレがこずえを愛人にして一年ほど経った頃だ。

最初の事件は、担任教師に濡れ雑巾を投げつける程度のかわいいものだったが、その後急速に破壊行為をエスカレートさせていった。家でも学校でも些細なことで興奮し、泣き喚いて暴れ回る。
小学生の間はまだ躰も小さく、怪我人が出るほどではなかったが、中学生になってからは深刻な状況となった。

あの頃の惣一郎は、まるで狂犬だった。暴力に加えて素行の悪さも問題となり、こずえは頻繁に学校に呼び出され、精神的に追い詰められていった。

当時のオレは異例の昇進を遂げて取締役となり、社内政治に明け暮れていた。些細なスキャンダルも恐れ、惣一郎が事件を起こすたびにカネで揉み消した。
惣一郎の暴走を力ずくで止めてやるべきだったのに、オレは問題の本質から目を背け、手っ取り早い対症療法ばかりを繰り返した。彼の人生への影響など全く慮らず、ただひたすら、自分の保身のことしか考えていなかった。

そうして惣一郎は十六歳のとき、凄惨な傷害事件を起こした。つまらないことで諍いとなり、相手の頭をビール瓶で叩き割ったのだ。
相手は、割れた瓶の切っ先で首に深い切創を負い、出血多量で死にかけた。ビール瓶で殴る前にかなりの暴行を加えたらしく、あばらが数本折れ、内臓を傷つけていた。

惣一郎は少年鑑別所に送られ、高校を退学処分となった。オレは有能な弁護士を手配して示談に持ち込み、少年院行きだけは阻止した。

惣一郎が少年鑑別所にいる間、ショックで倒れたこずえに代わり、オレが後見人として面会に通った。惣一郎を思いやって、というよりは、オレ自身の贖罪のためだった。
面会室での惣一郎は、目が虚ろで、まるで生気がなかった。一言も話さなければ、こちらを見ようともしない。自分に絶望し、自身の魂を殺してしまっているかのように見えた。

ある日の面会に、オレは本を数冊、差し入れとして持参した。

「残念やけど、オレはお前と血がつながってへん。そやけどオレは、お前の父親のつもりになってる。お前は、自分の凶暴性に振り回されてるだけや。凶暴性を律する方法は必ずある。まずは本を読め。大抵のことは本に書いてある。」

聞いているのかいないのか、相変わらず惣一郎はぼんやりとうつむいたままだった。

この事件以降、こずえは精神の均衡を崩しては自傷行為を繰り返し、救急車で運ばれるようになった。アルコールに溺れて泥酔しては、

「亡夫が私を責めている。着物欲しさに好きでもない男に体を売ったと、亡夫が私を責めている」

と、オレに泣いて訴えた。これがつまり、こずえの本心だったのだろう。実際オレは、こずえの前に高価な着物をちらつかせて釣り上げたのだ。

だが、それでも、こずえに全く愛されていなかったという事実は、オレの自尊心をズタズタに切り裂いた。そして、オレ達の救いようのない関係に幼い惣一郎を巻き込み、オレは彼の誇り高さを踏みにじり、こずえは後ろめたさゆえに彼を冷遇した結果、今、オレ達は惣一郎から報復を受けているのだと悟った。

恐らく惣一郎は、成長するに従って、死んだ父親によく似てきたのだろう。こずえは惣一郎を見るたびに錯乱して泣き叫ぶようになり、そのたびに惣一郎はパニック発作を起こした。

一旦、こずえと惣一郎を引き離した方がよいと考え、オレは惣一郎に別居を提案した。惣一郎は暗い目をして考え込んでいたが、ある日突然、大阪からいなくなった。そして、こずえが死ぬまで、一度も帰ってこなかった。

十二年後、こずえは死んだ。五十歳だった。

十二年で、こずえの容貌は別人のようになっていた。アルコール依存のために浮腫んで太り、かつての美しさは見る影もなくなっていた。肌は乾き切って深くシワを刻み、実年齢以上に老け込んでいた。こずえの亡骸と対面した惣一郎は、一体何を思っただろうか。

こずえが死んだとき、オレは社の命運を賭けた他企業買収と海外進出に奔走していた。東京本店に詰めたまま、関西には全く帰れず、こずえの面倒は康子に任せっきりだった。

康子とこずえは愛人同士なのに仲が良かった。なぜそんなに仲が良いのか、と康子に聞いたとき、康子は、「我欲のために母親であることを捨てたところが同じなのだ」と言った。
康子はこずえの様子を常に気にかけ、こずえの店を手伝った。そして、こずえが死んだとき、こずえの身近にいながら彼女を助けられなかったと、自分を激しく責めた。

オレは、こずえの人生を無茶苦茶にした。

オレ達の救いようのない関係に、惣一郎と康子を巻き込んで苦しめた。
女をコレクションするなどと下等なことを考えていなければ、気まぐれでこずえに手を出していなければ、惣一郎の誇り高さを踏みにじっていなければ、今頃、こずえと惣一郎は二人で支え合いながら、幸せに暮らしていただろう。
オレという人間は、なんと浅ましい。


スーさんは銀縁眼鏡を外し、目頭をキュッとつまんだ。車はいつの間にか阪神高速を下り、三号線を西へと走っている。スーさんは目を真っ赤に充血させながら、助手席の秘書に言った。

「沢木。来年もあの店に行けるように調整しといてくれ。」

「かしこまりました。」

助手席の秘書は振り返らず、前方を見つめたままで返事した。


続く

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