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【創作大賞2024恋愛小説部門】早春賦 #23「待ち望んでいたもの」

前回のお話はこちら》


その翌週の定休日。
17:00に店を出て電車に乗り、惣一郎宅の最寄り駅で降りたあと、二人は馴染みの魚屋でアユを買った。惣一郎の指導を受けながら、若葉が下処理をして串を打ち、化粧塩を施して炭火で焼く。

若葉はアユを食べるのが初めてだ。「今日のところは思い切りかぶりつけ」と惣一郎に促され、ありがたく焼き立てに齧りつく。あまりの美味しさに、惣一郎と顔を見合わせて笑う。

夕食の後、惣一郎は廊下に面した引き戸に手をかけながら、若葉に「ちょっと来い」と声をかけた。

中を覗いてみると、廊下と惣一郎の寝室を繋ぐウォークスルークローゼットとなっている。入って右側には半透明の衣装ケースとハンガーラックが、左側には大きな桐ダンスが並び、その向こうに、惣一郎の寝室へ入る引き戸がある。

惣一郎は桐ダンスの引き出しを開けながら、「ここいらの着物を、若葉が着たってくれへんか」と言った。

「…訪問着と袋帯はサチエさんとこに貸し出してるけど、小紋やら名古屋帯はここに入れっぱにしてる。もう十年以上、誰も着てへん。若葉の気が向いたら着たってくれ。それから、良かったらこれも使うたってくれ。」

惣一郎は小さな引き出しを開け、手のひらサイズの木箱を幾つか取り出す。蓋を開けると、中には豪奢な櫛やかんざしが並んでいる。

「…久しぶりに美術館に行って、こいつらのことを思い出した。全部、死んだ母親のやけど、俺が後生大事に持っててもしゃあない。こういうんは、使われるために作られてるからな。誰かが使うたらんと、みんな、かわいそうや。」

そして、惣一郎は若葉に合鍵を渡す。

「…定休日の朝イチは、俺は出かけてるからな。勝手に入って、勝手に着たらええ。着替える場所は、リビングでも俺の部屋でも、好きに使え。姿見は、そこに立てかけてある。」

ほんまにええの?と聞くのも無粋な気がして、若葉は惣一郎の厚意を素直に受け取り、「ありがとう」とお礼を言った。

次の定休日の10:30。
早速、若葉は惣一郎の部屋を訪れた。長襦袢は自宅で着付け、その上に浴衣を半幅帯で括り付けた格好だ。惣一郎がいない部屋の中はしんと静まり、何もかもが死んでいるように感じられて、若葉は少し心細くなる。

リビングのソファに座り、小さなスクラップブックを開く。着物や帯の写真が一ページに一点ずつ貼られ、その横に織や柄の情報が、惣一郎の美しく整った文字で書き付けられている。

ページをめくり続けると、空白の紙面が現れる。それでもペラペラとめくり続けて、若葉は「あっ」と小さく声を上げた。冊子の最後の方のページに、加賀友禅を着た若葉の写真が貼りつけられている。
きっと、サチエさんが惣一郎に送った画像をプリントアウトしたのだろう。サチエさんのビルの前でユキエちゃんと腕を組み、屈託なく笑う若葉の顔が随分と幼く見える。

写真の横に、着物A,帯F,帯揚げA―2…と、惣一郎がメモを残している。そして、(帯締めはB―5でも良かったかも)との走り書きがある。惣一郎は、着物の着せ替えごっこが大好きなのだろう。若葉は思わずクスリと笑う。

スクラップブックを参考にして着物と帯を選び、たとう紙ごと抱えて、惣一郎の寝室に入る。初めて入る寝室は、他の部屋と同様、無駄なものがない。
六畳ほどの広さで、セミダブルのベッド、サイドテーブル、スタンドライトが並び、ベッドの足元にはオフホワイトの小さなラグが敷かれている。

部屋の逆サイドに目を転じると、リビングにつながるドアがあり、その横にはアンティーク調のキャビネットが置かれていて、なんだか、ここだけが違う景色になっている。
キャビネットの上には、やはりアンティーク調のジュエリーボックスがあり、その横に、フレームレスの写真立てが二つ並んでいる。

若葉は、何の気もなく写真立ての一つを見て、「あっ」と声を上げた。朗らかに笑う惣一郎が、小さな子どもと手を繋いで写っている。

「モクさんに、子どもがいたなんて…」

若葉の鼓動が早鐘のようになる。若葉はその写真立てを手に取って、よく見た。そしてすぐに、自分の見間違いに気づいた。

手を繋がれている子どもは、先日見た、遠足の写真の中の惣一郎だ。七五三の羽織袴をきちんと着て、カメラに向かってニコニコと笑っている。ということは、小さな惣一郎と手を繋いでいるのは、惣一郎の父親だろう。

もう一つの写真立てを見ると、かつて若葉が見た、加賀友禅を着ている母親の写真が納まっている。どちらの背景も、同じ日本庭園だ。

若葉は、惣一郎の父親の顔をじっくりと眺めた。よく見ると、顔のパーツの一つ一つは、さほど惣一郎と似ていない。だが、がっしりとした体格や、顔の輪郭や、眼鼻の配置がよく似ている。あと、表情の作り方も。

そこで若葉は再び、「あっ」と声を上げた。

…ああ、そうだ。あまりに自然過ぎて、今まで気に留めずに受け入れていた。とても重要で、ずっと待ちわびたことなのに。

その時、玄関ドアが開いて閉まる音がした。惣一郎だ。若葉は小走りで廊下に出る。玄関では、ジムから戻ったばかりの惣一郎が、汗でぐっしょりと濡れたTシャツを脱ごうとしている。そして若葉に気づき、

「…今、こっちに来るな。めっさ汗臭いから。」

と言って、かすかに笑う。そう。惣一郎が笑っている。いつの間にか、若葉の顔を見て笑うようになっている。この表情筋の動かし方が、父親とそっくりなのだ。若葉は今更ながら、飛び跳ねたい気持ちになる。

…好き。あたしは本当に、この人のことが好き。

若葉は満面の笑みで、惣一郎に言った。

「モクさん、おかえりなさい。」


続く

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