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短編Ⅳ | 家出猫 2/2

マンションの階段を駆け上がると、玄関ドアの前に仔猫がしゃがみ込んでいた。俺が家を出てから既に1時間半が経ち、東の空が白みかけて、あたりには夜明け前のひときわ冷たい空気が漂っていた。
仔猫は廊下の手摺壁に背を持たせかけてしゃがみ込み、膝に顔を埋めていたが、俺に気付いて顔を上げた。

「おまえ…どこに行ってたんだ」

俺は息を切らしながら尋ねた。

「…コンビニ」
「いつものセブンイレブンにはいなかったぞ」
「…ファミマまで行ってたの。あそこのポテチが食べたくなって」

俺が探していたエリアとは全く逆の方向か。道理で見つからないはずだ。

「おまえ、どうして一人で出て行ったんだ」
「…だって…一人で暮らすって、そういうことでしょ?」
「俺に一言あってもいいだろ。行ってきますとか」
「…一人で生きていけって言ったのは、マスターじゃない」
「財布も鍵もスマホも、持ってなかっただろ」
「…そういうのを持って行く必要性を忘れてた。いつもマスターと一緒だったから」

仔猫はしゃがみ込んだまま、俺の顔を見上げていた。

「…マスター、泣いてるの?」

俺は無言のまま涙を拭い、コートのポケットからキーケースを取り出すと、玄関ドアの鍵を開けた。

「ほら、早く入れ。風邪ひくぞ」
「…私のこと、心配してくれてたの?」
「当たり前だろ。おまえみたいな若い女が真夜中に出歩くなんて、危険過ぎるだろ」
「…私が無事に帰ってきて、嬉しい?」

俺はドアノブに手をかけたまま、黙り込んだ。
…そうだよ、すごく嬉しいよ。悪いか。

仔猫はしゃがみ込んだまま、俺に向かって細い腕を伸ばした。

「…ねえ、マスター、ずっとしゃがんでたから、足がしびれちゃった。お願い、手を引っ張って」

俺は仔猫の小さな手を見た。冷えて真っ白になった手は、指先だけがほんのりと紅色に染まっていた。そのきれいな指先を見つめながら、俺の中にやり切れない思いが込み上げてきた。

この手を取ったら、俺はきっと、後戻りが出来なくなる。
俺は、大切なものなんて欲しくないんだ。大切にすれば、失うのが怖くなる。執着すれば、捨てられるのが怖くなる。極限まで近づけば、離れるのが怖くなる。
でも、今この手を取らなければ、おまえはまた、俺の前からいなくなるんだろ?俺がおまえを受け入れてやるまで、何度でも姿を消すんだろ?そして俺はまた泣きながら、おまえを探し回る羽目になるんだろ?


俺は少しのあいだ仔猫を見下ろしていたが、やがて仔猫に近寄り、その指先に軽く触れた。仔猫の細い指先が俺の指の上をゆっくりと滑り、小さな手が俺の大きな手の中に納まった。そのしっとりとなめらかな感触に、俺は息を殺してじっと耐えた。

「…マスター、身体が冷えちゃった。お願い、温めて」

仔猫は立ち上がると、俺の背中に両腕を回し、そっとすり寄った。俺は身じろぎもせずに目を閉じた。

…ほら、やっぱり、後戻りができなくなるだろ?
ずっと前から、こうなることは分かっていたんだ。この仔猫のような女が真正面からすり寄ってきたら、俺はもう、一溜ひとたまりもなくなってしまうって。だからいつも、気をつけていたのに。

…仔猫が俺に甘えてくる。
…俺の理性が、溶ける。

俺は小さなため息とともに「…降参だ、もう…」と呟き、仔猫の柔らかい髪に顔をうずめた。




<v4 家出猫  了>



(次話)






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