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【創作大賞2024恋愛小説部門】早春賦 #08「左手首の温もり」

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その夜。

お店を再開することを喧伝したわけではないのに、古くからの常連客ばかりが三人、それぞれお友達と一緒に来てくれた。ヨシさんは、若葉の姿を見た瞬間、静止画像のようにわかりやすくフリーズし、目を丸くした。

「え、まさか、きみ、あの若葉ちゃんか?」

若葉はカウンターの中で恥ずかしそうに微笑み、丁寧にお辞儀した。

「うわあ、若葉ちゃん。どこのお嬢かと思うたでぇ。まあ、可愛らしい。めっちゃよう似合うてる。」

他のお客も一緒になって、若葉の着物姿を褒めちぎってくれる。若葉は嬉し過ぎて、どう反応したらいいかわからなくなって、「もうやめてぇ」と両手で顔を覆い、ひたすら照れている。
ヨシさんはカウンター席のスツールに腰を下ろすと、モクさんにビールを頼んだ。若葉が瓶に両手を添えて、ヨシさんのグラスにゆっくりと注ぎ入れた。ヨシさんは一口飲むと、

「いやー、別嬪さんに入れてもろたから、ビールがドンペリになったわぁ。」

そう鉄板ネタでおどけてみせて、愉快そうに笑った。


閉店後。

「…しばらくはお前の慣らし期間として、十八時開店、二十一時閉店にする。そのあいだは、お前はサチエさんの店で、着物から洋服に着替えてから家に帰れ。
お前が着物に慣れてきたら、いつも通り、十八開店、二時閉店に戻す。その時は、着物を着たままタクシーで家に帰って、脱いだ着物は次の日にサチエさんの店に持って行け。一晩ハンガーに吊るして、持っていく直前に綺麗に畳んで、風呂敷に包んで持って行くんやぞ。ええな。」

そう丁寧に説明しながら、モクさんは、着物の畳み方の図解コピーを若葉に渡した。若葉はモクさんを、不思議な生き物を見るような目で眺めている。

「モクさん、ちゃんと喋れるんやな。普段、全然喋らへんから、よう喋られへん人なんやと思うてたわ。それに、意外と普通のおっさんの声してんのやな。見た目がこんなやから、もっとしゃがれてドスの効いた、ヤクザみたいな声かと思うてた。」
「………」

モクさんは、若葉の言葉を黙殺する。

…素直で率直な性格というのも考えものだな。この悪意のない暴言が、かつて若葉と付き合っていたヘタレ男どもを日常的に傷つけ続けていたのだろう。

モクさんは、その男どもが少し気の毒になった。

今日、店に来る時はユキエちゃんが付いてきてくれたが、帰りはどうしたらいいだろう。

そう若葉が思案していると、ギャルソンエプロンを外したモクさんがドアを開けて、「行くぞ」と若葉に声をかけてきた。

「え、モクさんが、サチエさんとこまで送ってってくれるの?」

若葉が尋ねると、モクさんは、見ればわかるやろ、という顔をして、黙って突っ立っている。
若葉はカウンターの中からドアまで歩く間にも、つまずいたり草履が脱げたりして、なかなか前に進めない。親指の付け根に鼻緒が食い込んで、激痛が走る。

「…内股になって、前につんのめるみたいにして、すり足で小さく歩くとええ。」
「そんな、普段はせえへんことを、いきなりやれと言われましても。」

モクさんは、しゃあないな、という顔をして若葉に歩み寄り、無言で左腕を差し出した。若葉は一瞬躊躇したが、モクさんの厚意に甘えることにする。

二人の身長差があり過ぎて、うまく腕を組めないので、モクさんの左手首を上から掴ませてもらい、ネオン街をそろそろと歩く。日中は春の陽気だが、夜には気温がぐっと下がり、冷たい風が通り過ぎる。
数人の酔客グループがすれ違いざまに、あの子かわいい、と騒ぎ、若葉は顔が赤くなる。モクさんは、若葉に手首を掴まれながらも、まるで赤の他人みたいに無関心な顔をして、そっぽを向いている。

全身黒づくめの大柄なモクさんと、着物姿の小柄な若葉。年齢差は十四だが、モクさんは白髪が多いために老けて見え、若葉は童顔のために幼く見える。周囲からは、父親が娘の手を引いて歩いているように見えるのではないか、と若葉は思う。

若葉には、親に手をつないでもらった記憶がない。過去のどの時点を思い起こしても、自分の周囲に親子の情愛らしきものはこれっぽっちもなかった。
それなのに今、モクさんの手首を手のひらで包んでいると、まるで幼い頃に父親と手をつないだような、不思議な懐かしさが込み上げてくる。モクさんの体温が手のひらに伝わり、若葉の中の絶望的な寂しさが、少し癒されるような気がする。
これまでもいろんな男と手をつないできたが、こんなにしみじみと温かい気持ちになったことはなかった。

若葉は、すぐ隣を歩くモクさんの顔を見上げた。身長差が三十五センチもあるので、若葉の目からはモクさんの左頬の深く長い傷しか見えない。

「モクさん。」

モクさんは、なんや、という風に若葉をちらりと見た。

「今日は、綺麗な着物を着させてくれて、ほんまに、ありがとう。選んでくれたのはモクさんや、ってユキエちゃんが言うてた。生まれて初めて着物を着たけど、鏡の中の自分がすごく綺麗で、生まれ変われたみたいで、めちゃ嬉しかった。あたし、ちゃんと綺麗に着こなせるように、これから頑張るね。」

モクさんは黙ったままだったが、あたしの感謝の気持ちはちゃんと伝わっただろうか、と若葉が不安に思ったあたりで、

「…それは、良かったな。」

そうポツリと呟いた。


続く

前回のお話はこちら》


【第1話はこちら】

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