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短編 | 七味唐がらし sideB:依り代


「ねえ、もしかして、佐藤君?」

背後からとても懐かしい声で呼び止められ、俺は驚いて振り返った。そこには、十三年前に別れた彼女が立っていた。

「なっちゃん…?」
「ああ、やっぱり!背中が佐藤君に似てるなって思ったんだ。今は長野で暮らしてるって聞いてたし」

彼女は全く屈託のない笑顔を浮かべて俺に言った。俺を捨てて他の男と結婚したことなど、すっかり忘れてしまっているみたいだった。

十三年前。
俺と彼女は大学の同じサークルに所属していた。俺は美しい彼女に憧れ、長らく片想いをしていたが、卒業まで残り半年を切ったある日、思い切って告白したところ、意外なことにすんなりと受け入れてもらえ、晴れて交際を開始した。
それから卒業までの間、俺は彼女に夢中になり、どっぷりと溺れた。まさに、めくるめくような愛の日々だった。

しかし、そんな夢のような時間は長く続かなかった。就職していきなり俺は上海オフィスに配属され、東京に彼女を残している間に、彼女は職場の既婚者と激しい恋に落ち、略奪婚を果たしてしまったのだ。

「ごめんなさい。佐藤君、本当に、ごめんなさい」

電話口で泣きながら謝る彼女の言葉を、俺は信じられない思いで聞いた。

上海で五年間を過ごし、東京に戻ってしばらくして、俺は同僚の女友達と結婚した。そしてさらに五年後、離婚して独り身に戻った俺は、家業を継ぐために会社を辞め、故郷の長野に帰った。
そして今日、たまたま善光寺そばの『八幡屋礒五郎』の前を通りかかったところで、思いがけず彼女と再会したのだ。

「なっちゃん、こんなところで何をしてるの?」
「東山魁夷の絵を見たくて長野に遊びに来たの。それで、夫へのお土産を買うためにこの店に来たの」
「ああ、なるほどね」

俺は『八幡屋礒五郎』の小洒落た店構えを覗き込んだ。

「夫は長いこと糖尿病を患っているの。味付けの薄いものばかり食べているから、こういうスパイスがあると喜ぶと思って」
「ふうん…」
「それにしても佐藤君、全然変わってないね。プーさんに似てるところがそのまんま」
「それって太ってるって嫌味?」
「相変わらず癒し系ねってことよ」
「そう言うなっちゃんも全然変わらないね」
「そう…?」

彼女はそう言いながら、自分の両頬をそっと撫でた。
そう。彼女は驚くほど変わっていなかった。抜けるように白く滑らかな肌には、シワもシミもない。黒々とした大きな瞳は長いまつ毛に縁取られ、蠱惑的に俺を見つめている。

俺はこの瞳にやられたのだ。この瞳を覗き込みながら彼女にキスをして、この瞳を覗き込みながら彼女を抱いた。そのときの苦いような甘いような気持ちが、胸の中でリアルに蘇った。

「ねえ佐藤君。今夜、一緒に食事でもどう?私は明日、東京に帰るの」
「いいね。じゃあ、俺の知っている店に案内するよ」

そうして俺は彼女と夕食を共にし、行きつけのバーで飲んだ。彼女は相変わらず、酔うととても色っぽくなった。そして、とろんとした眼差しで、隣に座る俺をしばらく見つめた後、突然、言った。

「ねえ、佐藤君。私を抱いてくれない?」
「どうしたの、急に」
「私、怖いの。このまま、夫とのことを忘れてしまうのが」
「え?」

俺は、彼女の言葉をうまく理解できなかった。彼女はショートカクテルのグラスの脚を人差し指でなぞりながら言った。

「もう、忘れてしまいそうなの。彼がどんな風に私を抱いて、私はどんな風に感じたのか。何もかも忘れてしまったら、私たち、男と女ではなくなってしまう。そうして、乾き切った関係になってしまう。それがとても怖いの」
「…だからって、俺と寝ても意味ないじゃん」
「そんなことない。だって、夫の愛し方と、佐藤君の愛し方、とても似てたもの」

彼女が言わんとしていることがわかり始め、俺は少し慌てた。

「いや、なっちゃん、ちょっとおかしいよ。飲み過ぎ」
「確かに酔ってるけれど、今思いついたことじゃないよ。夫はいつも私に謝るの。遺伝性の病気のせいなのに、彼は自分を責めて、私に謝るの。私、もう彼に謝らせたくない。彼に負い目を感じさせるくらいなら、私が罪悪感を持ちたいの。そうしないと私たち、イーブンにならないの」

彼女は必死な目をして言った。

「いや、だからって、俺と浮気したらヤバいでしょ」
「それは私と彼の問題だから、佐藤君は心配しなくていいの。佐藤君は黙って、私を抱いてくれればいいの」
「なっちゃんの旦那さんの代わりに?」
「駄目…?」

彼女は唇を半開きにして、上目遣いに俺を見た。ああ、この顔だ。付き合っていた頃、俺を誘う時の彼女は、いつもこんな顔をしたのだ。久しぶりに彼女のそんな表情を間近で見て、俺の理性がぐらりと揺れた。

…もう一度、彼女に触れることができるのか。白く滑らかで、だが次第にしっとりと汗ばんで紅潮していく彼女の肌に。

彼女への欲情が湧き上がると同時に、俺は、今ここで彼女を抱けば、かつて彼女に裏切られたことへのささやかな復讐を果たせると思った。彼女の伴侶がどんな男かは知らないが、彼女を奪われたことに対する溜飲が下がると思った。

「わかったよ。俺は旦那さんの”依り代”になればいいんだね」
「”依り代”…?」
「旦那さんになり切るって意味だよ」
「…ありがとう」

彼女は少し涙ぐんで言った。
「やっぱり、佐藤君は優しいね」

…この場合の『優しい』は、誉め言葉じゃないだろう?
俺はグラスに残っていた酒を一気に胃袋へと流し込んだ。

十三年ぶりに彼女を抱くにあたり、俺は少し緊張したが、実際に彼女と肌を合わせて見れば、そんな不安は必要なかった。全ては記憶通りだ。
ただ一つ、彼女は俺に、口づけをすることだけは許さなかった。きっと彼女は、キスで伴侶とコミュニケーションを取っているのだろう。

俺の愛し方は、彼女の伴侶とよく似ている…
俺は彼女の期待に忠実に従おうと思った。俺の記憶と寸分違わず美しいままの身体や表情に感動しながら、かつて彼女をどんな風に愛撫したのかを一つ一つ思い出しながら、随分と稚拙なことをやっていたものだと当時の自分に呆れながら、俺は彼女を抱いた。

その最中、彼女は終始、俺から顔を背け、きつく目を閉じていた。きっと彼女は今、自分の伴侶に抱かれているつもりになっている。今、自分が受け取っているものは全て、愛する伴侶から与えられているのだと思っている。

やがて、二人で一緒に高みに昇って同時に果てて、全てが凪いだ後、ようやく彼女は目を開いて、俺の顔を見た。そして口元で手を合わせて涙を流しながら、震える声で俺に言った。

「ありがとう。佐藤君、本当に、ありがとう」

これによく似たフレーズを、随分前にも彼女の口から聞いたことがあるように思った。

それから三か月後。
「今度は、あなたが東京に来てほしい。ホテルは用意するから」
そう彼女が電話口で言った。俺は彼女の言いつけ通り、一味唐がらしを一缶買い、本店の包装紙に包んでもらってから、東京に向かった。

十八時に東京駅で落ち合った後、彼女は「今から一緒に、四ツ谷まで来て」と言った。夕暮れの四ツ谷駅界隈は、家路を急ぐサラリーマンの群れが駅に向かって流れ、俺たちはそれに逆行するようにオフィス街へと向かった。その間、彼女は俺に腕を巻き付け、ぴったりと身体を密着させていた。

「どこに行くの?」
「…うん、ちょっと一緒に歩いて欲しいだけなの」
「どこまで?」
「…あと、もう少し」

そんな会話をしているうちに、彼女は突然、ハッとしたような表情で立ち止まった。そして、すれ違っていく群衆の中の一点を凝視しながら、ゆっくりと振り返った。

「どうしたの?」

俺は、茫然と立ち尽くす彼女に声をかけた。彼女は遠くの人混みに目をやったまま、涙声で言った。

「…なんでもないの。大丈夫」

それからも、彼女は俺と逢瀬を重ねた。
彼女から連絡してくることもあったし、俺から連絡することもあった。東京で会うこともあったし、長野で会うこともあった。東京で会う時には、俺はいつも、唐がらしの薬味を一缶買っていった。それを彼女は、伴侶への土産物として自宅に持ち帰った。

ベッドの中で、俺は毎回、彼女の期待通り、彼女の伴侶の足跡を忠実に辿り続けた。相変わらず彼女は俺に口づけを許さず、終始、きつく目を閉じて、顔を背けていた。
感極まった彼女の口から彼女の伴侶の名前が漏れたとき、俺は予想以上に傷ついた。”依り代”であることは最初から承知していたはずなのに、たくさんの擦り傷が俺の心を乱し、ジクジクと化膿した。

次第に俺は、なんとしても俺自身の足跡を彼女の身体に残したくなった。
…ちょっと変わったことをしてみようか。
…普通の男はやらないようなことをしてみようか。
その衝動は何度も沸き上がったが、そのたびに、情事の後に涙を流して俺に感謝する彼女の美しい瞳が、瞼の裏にちらついた。
結局、俺は最後まで、彼女の期待を裏切ることができなかった。

そうして、七年が過ぎた。
雪の長野で彼女を抱いた二日後、共通の友人から電話がかかってきた。友人は興奮した口調で、彼女が電車内で倒れて亡くなったと、俺に伝えた。俺は俄かには信じられなかった。彼女の肌の柔らかさも温かさも、まだ俺の身体にしっかりと残されていたのだ。

俺は葬儀の日時と場所を友人から聞き出し、急いで東京に向かった。葬儀場に据えられている遺影は、確かに彼女のものだった。その美しい笑顔を見止め、俺は頭が真っ白になって膝から崩れ落ちそうになった。

魂が抜けたようになりながらも平静を装って焼香をし、遺族席に黙礼した。そのとき初めて、俺は彼女の伴侶の顔を見た。そして、ひどく驚いた。彼女の伴侶の顔が、まるで兄妹かのように、彼女によく似ていたからだ。
紐帯の強い夫婦は顔が似てくると聞くが、ここまでそっくりな夫婦だとは思っていなかった。かつて彼女が俺を捨ててこの男を選んだ理由が、よくわかった。

彼女の伴侶は、突然妻を亡くして憔悴し切っていたが、彼女によく似た面立ちが愁いを含んで、男の俺でさえもゾクッとするほど美しかった。
そして、喪服に包まれた身体は、長らく病に侵されてきたとは思えないほど均整が取れて、きりりと引き締まっていた。
その事実は、かつて彼女によって俺が伴侶の”依り代”であることを思い知らされたとき以上に、俺を打ちのめした。

情事の最中、彼女はこの美しい男の顔を思い浮かべていたのか。そして、この美しい身体を持つ男の名を口走っていたのか。

俺はずっと、彼女の伴侶は俺同様に、しょぼくれてボッテリとした中年男だと思っていた。だからこそ、俺が彼女の伴侶の”依り代”に選ばれたのだと思っていた。それはすなわち、『彼女の好みのタイプは俺のような男だ』という自負に通じていた。

あの頃、彼女は俺と離れ離れになって寂しかったから、既婚者との恋に迷い込んだだけなのだ、本来なら俺のものになるはずだったのだと、心のどこかで信じていた。

なぜ、そんな短絡的なことを考えていたのだろう。俺は一体、何なんだ。あまりに自分がみじめで、情けなくて、この場でめっためったに切り裂きたくなった。

放心状態で新幹線に乗り、長野に戻ったその翌日の夜半、俺の知らない電話番号を画面に表示して、社用スマホが震えた。電話に出ると、大人の男の滑らかな声が耳に響いた。

『はじめまして。吉田と申します。吉田奈津子の夫です。このたびは、奈津子が大変お世話になりました』

俺は心臓が止まりそうなほど驚いた。
『大変お世話になりました』とは何を指しているのか。俺たちの密会を指しているのか。彼女の伴侶は、俺たちの関係を知っていたのか。

俺は激しく動揺し、一体何と返事をしたらいいのかわからなくなった。俺の狼狽とは対照的に、彼女の伴侶は、まるで静かな湖面のように落ち着き払った声音で、清々しく言った。

『いえ、僕はあなたを責めたくて電話しているんじゃないんです。心から感謝しているんです。奈津子を愛してくれて、本当に、ありがとうございました』

俺は混乱した。
感謝している?なぜ?
俺は間違いなく、彼女と背徳の関係だったのに?

俺の心が荒々しく波立っているのにも関わらず、電話の向こうはひたすら静謐だった。そのことに対し、俺の中に、怒りがフツフツと沸き上がった。その怒りは、今この瞬間だけのものではなく、この七年間のものでもなく、彼女を奪われて以降の二十年間の蓄積だった。

…感謝?
随分と上から目線な発言じゃないか。
なんでそんなに余裕の態度なんだよ。

俺はあんたのカミさんを寝取ったんだぞ。
あんたのカミさんの身体を好き勝手にしてきたんだぞ。
あんたのカミさんの身体の隅から隅まで、思う存分いじくり回したんだぞ。
あんただって、本当は嫉妬でハラワタが煮えくり返ってんじゃないのかよ。
それとも何か?そんなに自分に自信があるのか?あの美しい妻が、この美しい自分以外の男を愛するわけがないとでも?

…なんだよ。馬鹿にしやがって!
女に対して不能になったあんたのプライドを、どん底まで引きずり降ろしてやろうか。
この七年で、俺がどれだけあんたのカミさんの身体を開発したか、教えてやろうか。
この七年で、あんたのカミさんの反応がどう変わっていったか、教えてやろうか。
あんたが知らないカミさんの身体のことを、嫌と言うほど語ってやろうか。


激しい言葉が喉元までせり上がって来るのに、俺は何も言えなかった。いつの間にか、涙が溢れて頬を伝い、テーブルをぼたぼたと濡らした。

わかっているのだ。俺が何を言おうと、きっとこの男は傷つかない。
俺が言葉を尽くして情事の一部始終を語っても、この男はただただ、まるで自分の情事かのようにじっくりと味わって、追体験するだけなのだ。そして、妻への理解を一層深め、夫婦の紐帯をより堅固なものにするだけなのだ。

俺は、乱暴な言葉を吐く代わりに、嗚咽を漏らした。そして、途切れ途切れに言った。

「…いえ、僕の方こそ、ありがとうございました」

それは間違いなく、男としての敗北宣言だった。

その後、彼女の伴侶と俺は、形式的な挨拶を交わして電話を切った。彼女の伴侶の声は最後まで、適切な温度と適切な湿度を保ち、ひたすら滑らかだった。

電話を切ったあと、俺はしばらく動けなかった。

俺は目を閉じた。
新幹線の改札口で手を振る彼女の姿が脳裏に浮かんだ。一晩中俺から愛されて満ち足りた彼女が、晴れやかな笑顔で俺に手を振った後、くるりと背を向けて、愛する伴侶の元に帰っていく。その華やいだ後姿が脳裏に浮かんだ。

これまで俺は、その後の彼女が一体どんな風に過ごしているのかを、あまり想像しないようにしていた。

満ち足りた彼女はきっと、伴侶に対してありったけの愛情を注いでいたのだろう。
俺には決して許さなかった口づけを、伴侶には朝に夕に許していたのだろう。
俺には決して施さなかった愛撫を、伴侶には惜しみなく与えていたのだろう。
俺には決して囁かなかった愛の言葉を、伴侶には一日中囁き続けていたのだろう。

悔しくて、情けなくて、涙が止まらなかった。俺は声に出して呟いた。

「ずるいよ、なっちゃん…俺は絶対に、君の旦那さんを傷つけないって、そういう優しい男だって、君はそう信じていたの?」

…君は、旦那さんと俺が正反対のタイプの男だから、安心して俺に抱かれたの?いくら身体を重ねても、決して俺に惹かれることはないと、高を括っていたの?

俺のことが旦那さんにバレたところで、大したことはないと思っていたの?それくらい、旦那さんを深く愛して、旦那さんから深く愛されていたの?

君たち二人にとって、やっぱり俺は、ただの”依り代”だったの?君が、俺に抱かれることで旦那さんに抱かれたつもりになったように、旦那さんも、俺を通して君を抱いているつもりになっていたの?

…君は、俺が全く傷つかない人間だと思ってた?

君が俺を捨てて旦那さんと結婚した時、上海から祝福の電報を打ったから?
別れの電話口で、「これからも君の幸せを応援するよ」と笑ったから?
あの時だって俺は、深く深く傷ついていたんだよ。でも、最後まで君に相応しい男であろうと、精一杯虚勢を張っていたんだよ。

わかってるよ。今回だって虚勢を張らずに、途中で拒めば良かったんだろ?でも俺は、拒めなかった。どんなかたちででも、君と繋がっていたかったから。
でも結局、俺は君と何一つ繋がっていなかった。俺という”依り代”を通して、君たち夫婦だけが繋がっていたんだ。


…俺は、いつか君が俺の名前を叫んで、俺の目を見つめながら果ててくれる日が来ることを待ち望んでいたのに。そうすれば俺も、君の名前を叫んで、君の美しい瞳を覗き込みながら、果てることができたのに。


…せめて、君の旦那さんが俺に嫉妬してくれていたら、そして、電話口で俺を罵倒してくれていたら、少しは救われたのに。

彼女の死から三年が経ち、ようやく、彼女がこの世からいなくなったことを現実として受け止められるようになった頃。

彼女の伴侶が自ら命を絶ったと、風の噂で聞いた。

蓼科の原生林で、白骨化した遺体の一部が見つかったのだと、その付近に結婚写真のフォトフレームが埋もれていたために身元が判明したのだと、風の噂で聞いた。

突然妻を失った悲しみでメンタルをやられていたのだとか、急速に進行していく病に苦しんでいたのだとか、まだ目が見えて自力で歩けるうちに身の始末をしたのだとか、様々な憶測が飛び交ったが、遺書がない以上、真相はわからない。

彼の遺体が発見されて、親族が自宅マンションに駆け付けたところ、二人が住んでいた部屋の中は、既に彼の手によって何もかもが処分され、すっかり伽藍洞になっていたという。


そして俺だけが…

美しい彼の”依り代”となって、美しい彼女を抱いていた俺だけが、ただ一人、まるで彼らの形見のように、この世界に取り残された。



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