短編Ⅹ | 希望の轍 1/2
「あれ、今日は、お嬢ちゃんはいないのかい」
店に入るなり、親父さんが言った。
「ええ、今日はやっぱり、特別なので」
俺は親父さんの酒を用意しながら答えた。
「まあ確かに、今日は特別だからな。お嬢ちゃんは、おまえのおふくろを直接知らないしな」
七月二十八日。今日は俺の母親の十七回忌だ。
毎年、母親の祥月命日には、店のドアに『CLOSE』をかけ、母親のパトロンだった親父さんと、息子だった俺の二人だけで過ごすことにしている。
十六年前の今日、俺の母親はこの店で死んだ。急性アルコール中毒で吐瀉物をのどに詰まらせ、窒息死したのだ。第一発見者はこの俺だ。当時三十歳だった俺は、母親からカネを巻き上げるためにこの店を訪れ、床に転がる母親の死体を見つけた。カウンターの上に遺書らしきメモが残され、そこには「ちゃんと愛してあげられなくてごめんね」と走り書きされていた。だから俺はずっと、母親は俺の放蕩を苦にして自死したのだと思い込んでいた。
親父さんはロックグラスを額の前に掲げてしばし黙祷したあと、一口含んだ。そして、いきなり俺に話題を振って来た。
「ところで、アネゴから聞いたけど、お嬢ちゃんがおまえの子どもを産むんだって?仔猫が仔猫を産むなんて、かわいすぎるじゃねえか」
「あの女亭主が言ったことを、真に受けないでください」
「なんだよ。いいじゃねえか。産んでもらえば」
「そんな無責任な。親父さんは独身なのに」
「子どもはいるぜ?五人ばかし。言ってなかったっけ?」
俺は驚いて顔を上げた。親父さんは何の悪気もない顔でケロリとしていた。
「オレは独身だが、認知した子どもは五人いるぜ。一人は上の兄貴んとこの甥っ子の私設秘書をやって、一人は下の兄貴んとこの病院の事務長をやって、一人は俺の会社の社長をやって…」
「あの社長が?苗字が違うんで気づきませんでした」
「だって、婚外子だもん。苗字は違うよ」
親父さんはロックグラスを傾けながら話を続けた。
「オレはさ、色んな女と遊びたいから独身だけど、女が望めば子種と養育費をくれてやってたんだよ。そんで、真面目に育ったヤツだけ、認知することにしてたの。ま、結果的に、全員認知してるけどな」
「じゃあ、俺にも弟か妹がいたかもしれないんですか」
「いや。それはないな。だってお前の母親、オレの愛人じゃなかったし。言ってなかったっけ?」
今日は随分と、いろんなことに驚かされる日だ。
「おまえの母親は、オレの愛人じゃなくて、ビジネスパートナーだったんだよ。まあ、たまにお味見させてもらってはいたけどな」
「その手の話はいいです」
「おまえの母親のほうからオレに話を持ち掛けてきたんだよ。『自分に店を持たせてくれ。必ず稼ぐから』って。そんで『オレの愛人になるならいいよ』って答えたんだけどさ、まあ、あんなヤマネコみたいな女を相手にしてたら、こっちが早死にすらあ。早々にご遠慮申し上げて、仕事上の関係ってことにしたのよ。そんで、余ってたマンションにおまえら親子を住まわせて、この店を用意してやったってわけ」
「……」
「あん頃、おまえらはDV男に苦労してただろ?あいつはなんとかして、そこから脱出したかったんだろうな。それでオレに近づいたんだろ。オレの一族の庇護下に入りゃあ、さすがのDV男もビビッて手を出さなくなるだろうしな。あんとき、おまえの母親は、断ったらぶっ殺すってくらいな形相でオレに迫ってきたんだぜ。多分、何とかおまえを守ってやりたい、って思ってたんじゃねえか」
俺たちのボロアパートに入り浸り、幼い俺と母親に暴力をふるっていた男。俺を殴り、泣けばさらに殴っていた男。あの頃の俺はまだ小さかったが、母親があの男にひるまずに立ち向かっていた姿を覚えている。確かにあれは、どこから見てもヤマネコだった。
「実際、おまえの母親は頑張ってたよ。あの激しい性格で、吉祥寺の名物ママになって、いろんなメディアに顔出したりしてさ。おまえにカネを巻き上げられながらも、スタッフにちゃんと給料はらって、オレにも儲けを納めてたぜ。この店も、アネゴの店も、おまえの母親がママをやってた頃からの常連が多いだろ。おまえとアネゴの顔を見て、名物ママを懐かしがってんのさ」
「……」
「ところでさ、さっきの話だけど。おまえ、お嬢ちゃんをどうすんだよ。お嬢ちゃんはおまえの子どもが欲しいっつってんだろ?子種だけでもやりゃあいいじゃねえか。あのお嬢ちゃんなら、おまえがいなくても子どもくらい養えるぜ。なんなら、うちの社長に言って、高円寺にでも店を持たせてやろうか?」
「いや、そうしたいわけでは」
「どうせおまえ、ゼロか百かで考えてんだろ。別に結婚しなくたって、いくらでもやりようはあるんだぜ。シンママってのも大変だけど、手のかかる旦那がいるよりはまだマシだって説もあるしな」
「……」
「正しいかどうかで考えちゃダメよ。それでやるとゼロか百になるのよ。現実は圧倒的にグレーなんだからさ。自分がやりたいように、チョイスしてカスタマイズすりゃいいのよ。それでみんながハッピーならいいのよ。おまえの一番の問題は、『自分はどうしたいのか』ってのの解像度が低すぎることじゃねえの?だから思考がゼロか百になるのよ」
◆
そうして親父さんは一方的に俺に説教し倒し、ご機嫌で店を出て行った。
俺は一人で店に残り、棚から『桜尾』のブルーボトルを取り出して、薄めのソーダ割を作った。そして額の前に掲げて黙祷し、一口ふくんだ。
…自分はどうしたいのか?
これまで、そんなことを考えたこともなかった。
去年の今頃は、死ぬまで一人で生きて行くつもりだったのだから。
体力が続く限り、ほそぼそとこの店を営業して、あとは適当に野垂れ死ぬんだろうと思っていたのだから。
…そう。仔猫と深く関わるようになるまでの俺は、生きても死んでもどうでもいいと思っていたんだ。
…自分はどうしたいのか?
仔猫とずっと一緒にいたい。
仔猫の願いを叶えて、俺の子どもを産ませてやりたい。
できるだけ健康に長生きして、仔猫と一緒に年を取っていきたい。
……………だめだ。いつか、仔猫を残して、俺が先に死ぬことを考えたら、涙が出てきた。
女亭主と助け合いながら、この店を続けたい。
社交的な仔猫のおかげで、いろんな仕事仲間が増えてきたし、吉祥寺のこの場所で、店を続けていきたい。
…俺の未来予想図は以上…か。
確かに親父さんの言った通り、解像度が低すぎるな。
ふと俺は、母親の人生を思った。
母親は、どんな人生を送りたかったのだろうか。
九州の田舎から十八歳で上京してきたとき、母親はどんな希望に胸を膨らませていたのだろうか。
それから二十三歳で俺を産むまで、どんなことがあったのだろうか。
俺の父親とはどこで知り合ったのだろうか。
一体どんな男だったのだろうか。
物心ついた時には、すでに母親と俺の間には距離があって、母親のことを詳しく聞くことはなかった。母親は俺に無関心だったけど、同様に俺も、母親に対して無関心だったのだ。
あの女亭主が言うように、子どもに甘えられることで母親としての自信を持つことができるのであれば、俺の母親は、全く自信がなかっただろう。
俺は、どうだろうか。
仔猫が俺の子どもを産んでくれて、その子が俺に甘えてくれたら、父親としての自信を持てるんだろうか。今は全く、自信がなくても。
仔猫が甘えてくれたことで、男としての自信を持てたように。
そのとき、カウンターの隅のスマホが光って、仔猫からLINEが届いたことを知らせた。
画面をタップすると、「今夜は何時に帰って来るのか」の問い合わせと、「次の定休日は月窓寺とサンロードの夏祭りに行きたい」という要望と、かわいい仔猫が小さなハートを繰り出しているスタンプが表示された。
俺は一人でクスリと笑い、短く返信を打つと、店内の清掃に取り掛かった。
(つづく)
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