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【創作大賞2024恋愛小説部門】早春賦 #12「光だけを見る」

前回のお話はこちら》


駅でユキエちゃんと別れた後、若葉はそのまま、ママが入院している病院に向かった。

ママは四月に倒れた後、一か月で退院し、若葉と一緒に暮らすマンションで療養していたが、夏の暑さがこたえたのか、つい先日、リハビリを受けている途中で調子を崩し、そのまま再入院となった。盆明けには手術を受けることになっている。

「ママ、調子はどう?」

若葉は病室に入り、ベッドのそばのパイプ椅子に座った。ママは若葉の顔を見て嬉しそうに笑い、ベッドの上に起き上がった。倒れて以来、ママは長かった黒髪をベリーショートにし、グレージュに染めている。それもよく似合っていて素敵だ、と若葉は思う。

「まあ、普通やな。発作を起こさへん限りは、普通。それよりか、どないしたの、若葉ちゃん。なんや元気ない顔してるけど。」

「………」

若葉はうつむいて、ひざの上でハンドタオルを弄んでいる。そして、重たく口を開く。

「モクさんが、昔、人を殺しかけたって、ほんまやの?」

ママは若葉の顔をじっと見た。若葉はうつむいたまま、ひどく思い詰めた顔をしている。ママは静かな調子で言った。

「そうやな。モクさんは確かに、人を殺しかけたことがあった。」

それを聞いた若葉は、傷ついたような顔になって、ハンドタオルを弄ぶのを止めた。

「詳しく知りたいんやったら、教えてあげてもええで。」

「…いや、ええわ。知りたなったら、モクさんに直接聞く。でもあたし、モクさんに、よう聞かんと思う。モクさんが傷つくから。そやから、モクさんが自分から言うてくれるまで、待っとく。」

「…そうか。」

ママはしばらく若葉の表情を見守っていたが、やがて観音菩薩のような慈悲深い笑みを浮かべ、声を明るくして、若葉に語りかけた。

「そんなら、話してもモクさんが傷つかへんことを、若葉ちゃんに教えたげる。実はな、若葉ちゃんを雇うって決めたんも、若葉って源氏名を考えたんも、モクさんやのよ。あの店はモクさんのお店やの。私はただの雇われママ。知らへんかったやろ?」

若葉は顔を上げてママを見る。

「あの店はな、昔は『スナック・こずえ』っていうて、モクさんのお母さんがしてはったの。モクさんはずっと東京で料理人をしてたけど、お母さんのこずえさんが亡くならはったときに大阪に帰って来て、スナックをバーに変えて、お店を引き継いだんや。」

ママは、窓の外に視線を転じ、遠くを見つめた。抜けるような青い空にひこうき雲が細く流れている。

「私が初めてモクさんに会うたのは、十年ちょっと前、病院の霊安室でね。モクさんは、こずえさんのご遺体を見ても黙ったまんま、表情を変えへんかった。そやけど、眼がものすごく荒んでた。この人、生きる希望をなくしたんちゃうか、今すぐにでも死ぬつもりなんちゃうか、って、心配でたまらんかったわ。」

クマゼミのシャワシャワという鳴き声が、遠くから聞こえる。

「そやけど、若葉ちゃんがお店に来るようになってから少し変わったの。多分あの人、若葉ちゃんを路頭に迷わせへんために、自分が頑張らなあかん、って思うようになったんや。それまでも仕事ぶりは真面目やったけど、本気で稼ごうとし始めたんは、あの頃からやな。」

「………」

「若葉ちゃんを雇うってモクさんが言い出したとき、私、『なんでやの』って聞いたの。そしたらモクさん、『あれを独りぼっちにはできへん』って言うた。無関心なふりをしながら、若葉ちゃんの身の上話をちゃんと聞いてたんやろな。」

ママは窓の外から視線を外し、再び若葉の顔を見て、にっこりと笑った。

「多分、モクさんは若葉ちゃんのこと、ほんまの娘か妹みたいに思うてんのやろな。これまで辛いことが多かったから、若葉ちゃんの気持ちがようわかるんやろ。…どうや若葉ちゃん、安心したか?」

若葉はハンドタオルを握りしめて涙を浮かべ、無言のまま二回うなずいた。

「な?若葉ちゃんが思うてる通りのモクさんやったやろ?」

若葉はハンドタオルを目に押し当てる。

「モクさんが人を殺しかけたんは、もう二十年以上も前の話や。二十年経てば人は変わる。モクさん自身が、自分を変えるために大変な努力をしてきた。そやから若葉ちゃんは、今のモクさんだけを見てあげればええ。モクさんの光だけを見てあげればええのよ。」

その翌日。
若葉がお客の話し相手をしていると、そのお客が、カクテルを作るモクさんを注視し始めた。お客に釣られて、若葉もモクさんを見る。

モクさんは氷とお酒をシェーカーに入れてよく振り、液体をグラスに注ぎ入れてお客に差し出す。全ていつも通り、すっかり見慣れた光景だ。

それなのに、なぜか若葉は、モクさんから目を離せなくなる。

メジャーカップでお酒を量り、ボディに移すときの鮮やかさ。シェーカーを振るときの滑らかな動き。お客にお酒を差し出すときの静けさ。
その間、モクさんは躰の軸を決してぶらさず、隅々にまで神経を巡らせて、所作の一つ一つを、まるでお茶の様式美のようにぴたりと決める。

引き締まった大きな体躯。

プレスがかかった黒いシャツ。

一本の乱れもなく撫でつけられた灰色の長い前髪。

濃い眉。鋭い切れ長の目。削ぎ落としたような頬。

引き締まった口元。くっきりと影を作るあごの線。

若葉は目を見開いて、モクさんをつぶさに眺める。まるで初めてモクさんを見たかのように、心が震えている。

…モクさんは、こんなに美しい人だったのだ。
あたしは今まで、モクさんの左頬の傷しか見ていなかった。

モクさんはバーツールの手入れをしながら、何か用か、という表情で若葉をちらりと見た。
若葉はモクさんに何かを言いかけたが、すぐに口を閉じて目を泳がせ、くるりとお客へ向き直った。モクさんは少し怪訝そうにしながら手元の作業に戻った。


続く

前回のお話はこちら》


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