短編Ⅲ | 留守番猫 2/2
オレは仔猫を見た。仔猫はオレの独白を、ずっと黙って聞いていた。
「お嬢ちゃん、ちょいと手を出しておくれ」
仔猫はカウンターの向こうから、白く細い手を素直に差し出した。オレはその手を両手で押し包んだ。
「あいつはずっと人を寄せ付けなかったが、どうやらお嬢ちゃんだけは特別みたいだ。どうだい、お嬢ちゃんはあいつのことが好きかい?」
仔猫はこくりと頷いた。
「あいつは血こそ繋がってねえが、オレには大事な息子なんだ。さっき、お嬢ちゃんは、自分はただの『飼い猫』だと言ってたが、それでも、あいつのそばに居てやってくれるかい?」
仔猫は再び、こくりと頷いた。
「そうかい。お嬢ちゃんが、あいつを母親の亡霊から引き剥がしてくれるといいんだがなあ…」
「だったらおじさま、これからも頻繁にお店にいらして、マスターにお母さんの楽しい思い出話をしてあげて。そうすればきっと、マスターも喜ぶから」
「そうだなあ。お嬢ちゃんがそう言うなら、そうするか」
◆
オレが仔猫の手を離したタイミングで、店のドアが勢いよく開き、あいつが帰って来た。パン屋からここまで走ったらしく、息が上がっている。
「親父さん、すいませんでした。お待たせして」
そう言いながら、視線は早々に仔猫に向けられ、無事であることを確認している。
…おいおい。おまえは仔猫の番犬かよ。これじゃあ、どっちがどっちを飼ってんだか、わかんねえぜ。
その後、オレはあいつが作った鮎のテリーヌを味わいながら、何杯かのスコッチを空けた。仔猫はほとんど喋らずカウンターの隅に控えていた。代わりにあいつの口数が少し増えていた。
帰り際、あいつは店先まで見送りに出てきた。
「なんだよ、珍しいじゃねえか」
「今日は親父さんにご迷惑をかけたんで」
階段の手前で振り返ると、黒づくめのあいつが店先で仁王立ちになり、その背後から仔猫がちょこんと顔を出していた。オレはおかしくて吹き出しそうになった。
…やっぱり、番犬として飼い慣らされてるぜ、おまえは。どれどれ、ちょっとからかってやるか。
「お嬢ちゃん、寂しくなったら、いつでもおじさんのところへおいで。待ってるからね」
オレは仔猫に投げキッスをしながら言った。あいつの顔がドーベルマンみたいに険しくなった。オレは笑いをこらえて階段を下りた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「おい、おまえ、あの爺さんに妙なことをされなかっただろうな」
おじさまを見送りながら、彼が言った。
「…妙なことって?」
「どこかを触られたりとか」
「…ああ、手を握られちゃった」
「手を、握られた…?」
彼が眉毛を吊り上げて振り返った。
「洗え、今すぐ」
「え、あ、はい」
私がシンクで手を洗う横で、「ちゃんとハンドソープを使え」「指の間も、爪の中もしっかりな」と彼がうるさく言った。そして「全く、あの爺さんは油断も隙もないな」とブツブツ言いながら、引き出しから新しいリネンを2枚取り出すと、私の両手をくるりと包んで丁寧に水気を吸い取った。そして、リネンをパンッと音を立てて広げ、ハンガーに引っ掛けながら言った。
「いいか。あの爺さんはな、80近くにもなって、まだあちこちに若い愛人を囲っているんだ。お前も油断してると餌食になるぞ。くれぐれも、あのエロジジイの前では俺から離れるなよ」
彼が真剣な顔をして言うので、私はおかしくなった。
「…今日はマスターが私から離れたんじゃない」
「今日は仕方ないんだ。バケットが切れてたから」
「…マスターにとって、おじさまは大切な人なのね」
「いけ好かないジジイだが、恩人ではあるからな」
「…確かに、結構すてきなおじさまね」
私は彼を少しからかってみたくなった。
「…もしもマスターに冷たくされたら、私、寂しくなって、あのおじさまのところに行っちゃうかも知れない。そしたら、どうする?」
彼が「えっ」という顔をしたところで、新しいお客さんが入って来た。彼はお客さんに応対し、私はススッとカウンターの隅に下がった。お客さんの前では、私はあくまでマスターの手足だ。
私はタオルウォーマーからおしぼりを取り出しながら、接客する彼をちらりと見た。
…マスターは自分では気づいてないみたいだけど、お客さんの前で少し笑うようになってるよ。それにマスターは、いろんな人から大切に思われてるよ。
私もなんだか楽しい気持ちになって、笑みを浮かべながらお客さんにおしぼりを差し出した。
<v3 留守番猫 了>
(次話)