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短編Ⅹ | 希望の轍 2/2

八月初旬の、定休日の夜。
俺たちは月窓寺の門前市をひやかした後、住まいのある牟礼まで、徒歩で帰った。「夜の玉川上水を歩いてみたい」と仔猫が言うので、サンロードから七井橋通り、そして井の頭公園から西園へと進んで、玉川上水沿いの緑道に入った。

玉川上水沿いの緑道は、明星学園通りを渡ったあたりから、街灯のない細道になる。民家から漏れる灯りも乏しく、ひたすら暗い。その暗がりの中を、俺と仔猫は並んで歩いた。

去年の秋の夜更け、俺はこの道を蹴躓けつまずきながら、家出した仔猫を探し回った。あの頃の俺は、いろんなわだかまりを抱えて、仔猫に強く惹かれながらもひたすら拒絶していた。まさか今こんな風に、仔猫と仲良く手をつないで同じ道を歩くことになるなんて、あの時は思ってもいなかった。

「足元がよく見えないから、転ばないように気をつけろよ」

「…そう?薄っすらと見えるよ?」

「おまえは若いから、夜目が利くんだな」

「…ふふ。じゃあ私がマスターの道案内をしてあげる」

そう言うと、仔猫は俺の手をしっかりと握った。そして、俺の手を少し振り回しながら、俺が好きな歌を小さく口ずさんだ。俺も一緒に口ずさみ、ハモって、踊って、二人で笑った。そしてたまに立ち止まって、軽くキスをした。

しばらく行ったところで、近くの住宅街から、小さな子どもたちの囁くような歌声が聞こえてきた。

  ほ ほ ほたるこい
  やまみちこい
  あんどのひかりを
  ちょいとみてこい…

「…え、なんだろ」

「ああ…何かの夏イベントじゃないか。ずっと前にも一度、出くわしたことがある」

囁くような歌声はゆっくりと近づいてきて、やがて俺たちの目の前に、色とりどりの小さな提灯がポツリ、ポツリと現れ、緑道沿いに列をなしてゆらゆらと揺れた。そのほのかな灯りに照らされて、浴衣や甚平を着た子どもたちの姿がうっすらと見て取れた。

「…わあ、かわいい…昔話みたい」

仔猫が俺に身を寄せて、小さく呟いた。

「そうだな」

俺も呟くように答えた。

…本当に、かわいいな。以前出くわしたときには、何とも思わなかったのに。

三十人ほどの子どもたちは手に手に提灯を掲げ、聞き慣れないわらべうたを口ずさみながら、緑道沿いの小高い森をジグザグに登って行った。たくさんの提灯が木々の合間でゆらゆらと点滅する様を、俺と仔猫は、玉川上水にかかる細い橋の上から眺めた。

目を凝らすと、何人かの大人が緑道のあちこちに潜み、俺たちと同じように提灯行列を眺めていた。きっとあの子どもたちの親が、密かに我が子を見守っているのだろう。


ふと俺は、死んだ母親のことを思った。

何一つ、俺に情愛を示さなかった母親。
ずっと、俺に対し、無関心な態度を見せていた母親。
でもきっと、愛に不器用な彼女は、俺にはわからないところで、彼女なりのやり方で、懸命に俺を守っていたのだ。
全く思い通りにならない人生と、全く心を開こうとしない息子の俺に、いつも途方に暮れながら。

そこまで考えたところで、長らく抱えていた母親に対するわだかまりがジワジワと溶け、同時に、ぼんやりと滲んでいた色彩が一つの像を結んだ。


やがて提灯行列はゆらゆらと遠のき、わらべうたは小さく途絶えた。同時に、森のあちこちに潜んでいた大人たちの気配も消えた。

玉川上水の暗闇の中で、俺と仔猫だけが取り残された。
あたりにはいつもの静寂が、まるで何事もなかったかのように戻ってきて、橋の下から、小さな小さなせせらぎが聞こえた。

「…とっても、かわいかったね」

「そうだな。とっても、かわいかったな」

俺は意を決して、仔猫の手を強く握りしめた。そして、ゆっくりと深呼吸したあと、彼女の本当の名前を小さく呼んだ。

「……小夜香さやか

「…なあに?」

小夜香は小さく答えて、俺を見上げた。俺は身体を少しかがめて、小夜香の瞳を覗き込んだ。暗闇の中で、小夜香の大きな瞳の中に、たくさんの星が見えた。

…ああ、これはきっと、”希望”の光だ。俺を見つめる小夜香の瞳の中に、たくさんの希望が宿っているんだ。そして、小夜香の瞳を見つめる俺の瞳の中にも。

俺は、込み上げてくる愛しさに胸をしめつけられた。そして、その甘噛みのような痛みに耐えながら言った。

「……小夜香さやか。俺はおまえと、ずっと一緒にいたい。おまえが、たくさんの子どもたちに囲まれて、幸せそうに笑っている顔を見てみたい。その子どもたちの隣に、いつも俺がいればいいと思ってる。……でも、まだ心の準備ができていないんだ。だから、もう少しだけ、時間が欲しい。そんなに長くは待たせないから」

小夜香の瞳の中で、たくさんの星がさざ波のようにキラキラとまたたいた。そして、たくさんの星を俺の身体に寄せながら、歌うように囁いた。

「…じゃあ、私はマスターと二人で、もう少しの間、”春”を楽しんでいればいいのね?」

…近い将来、俺たちが夫婦になったら、その『マスター』という呼び方も変わるんだろうな。

「ああ、そうだ。待たせるのは、ほんの少しの間だ」

俺は小夜香の長い髪をゆっくりと掻き上げた。そして、華奢な肩をそっと抱いて、滑らかな額にキスをした。





<v10 希望の轍  了>



僕は、暗闇の中で、君の瞳を覗き込む
君の瞳の中に、たくさんの星が見える
僕との愛への、希望が見える

僕は願う
君の瞳の中の星々が、ずっと輝き続けることを

鳴海  碧



サザンオールスターズ『希望の轍』



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