【創作大賞2024恋愛小説部門】早春賦 #17「加賀友禅の女」
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四月上旬の花まつりの頃。
夕食後、書棚から図録を取り出そうとして、若葉はクリアフォルダを床に落とした。
中から何枚かの写真が散らばる。若葉はちらりと惣一郎を見た。惣一郎は若葉に背中を向け、実業家と研究者の対談に没頭している。若葉はオフホワイトのラグの上に正座し、写真を拾い上げて手に取った。
遠足のスナップ写真が何枚かある。小学校低学年と思しき男の子達が、おどけたポーズを取っている。共通して写り込んでいるのが惣一郎だろう。
小さな惣一郎は、なんて可愛らしいのだろう。お坊ちゃまのような髪をツヤツヤとさせて、顔はまん丸だ。お母さんのお弁当が嬉しかったのか、頬張りながらニコニコしている。
それから、五枚綴りの証明写真。そのうち二枚が切り取られている。
高校生くらいだろうか。やや面長で、少しえらの張った精悍な顔立ちは今と同じだが、黒い短髪で、頬はげっそりと痩せこけ、眼差しは暗く生気がない。幼少期とは全くの別人のようだ。左の目尻から口元にかけて、えぐられたような生々しい傷が走っている。
若葉はその傷を人差し指でなぞりながら、あたしの可愛らしかった弟も、今頃はこんな風に顔が変わってしまっているのかしら、と思う。
そして、最後の一枚の写真を見て、若葉の息が止まる。どこかの日本庭園で、若い女性が着物を着て微笑んでいる。
その微笑み方は、明らかに恋人に向けられたものだ。
若葉と同じくらいの年齢だろうか、大変美しい人だ。ほっそりとして、なんともいえない色気がある。抜けるように色が白く、首筋から頬が綺麗なピンク色に上気している。綺麗な卵型の顔に、黒目勝ちで切れ長の目と、細い鼻筋と、品の良い小さな唇をして、まるでお雛様のようだ。
その、見惚れるほどに美しい人が、若葉が着たのと同じ加賀友禅をまとっている。
確かに同じ色柄なのに、若葉が着た時とは全く雰囲気が違う。図柄の配置が、華奢な柳腰にしっとりと馴染んでいる。写実的に描かれた花々が、この人特有の儚げな美しさを引き立てている。まるで、この人のために作られた着物みたいに。
若葉は強くショックを受けている。
この美しい人は、惣一郎の恋人なのだろうか。いや、自分が知る限り、惣一郎の周辺に女の気配はない。では、昔の恋人なのだろうか。なぜ惣一郎は、この人と同じ着物を自分に着せたのか。
童顔で、背が低くて、やたらと凸凹した躰をしている自分が、このほっそりとした大人っぽい美女と同じ着物を着て喜んでいたのかと思うと、あまりに滑稽すぎて、若葉は泣きたくなってくる。
…見なければ良かった。
そう激しく後悔しながら、若葉は写真をクリアフォルダに入れ直し、書棚に戻した。
◆
その帰り道。若葉は硬い表情をして、惣一郎の方を見ずに言った。
「モクさんは、なんであたしに、あの加賀友禅の着物を着させようと思うたの。」
いきなりどうした、という顔で、惣一郎は若葉をちらりと見る。
「モクさんは、あの加賀友禅に、なんや特別な思い出があるんとちゃうの。そんで、あたしにあの着物を着せて、誰かのことを懐かしがってるんちゃうの。モクさんには理想の女性像みたいなんがあって、それとあたしを比べてんのちゃうの。……あたし、そういうの嫌やわ。あたしのこと何も知らへんし、興味もないくせに、そんな人から理想を押しつけられるの、ほんまに嫌。…着物も。お茶も。何もかも。」
「…なんや、それ。」
惣一郎は、若葉の言葉に心底驚く。
何をどうすれば、そんな考えに至るのだ。確かに、着物を着ろ、お茶を習え、と一方的に押し付けたことは認める。でもそれは、若葉も気に入ってくれるといい、と考えながらの事であって、自分の理想像まで押しつけたつもりはない。
実際、若葉も最初こそ不承不承だったが、じきに着物もお茶も気に入ったではないか。なぜ急に、俺のことを激しく責め立てるのか。
これまで若葉と二人、同じ方角に向かって仲良く歩いてきたのに、突然きびすを返されたように感じて、惣一郎は傷つき、つい、感情的に反論してしまう。
「…そんなもん、お前かて、同じようなもんやろ。」
「何が?」
「…お前かて俺のこと、自分の都合がええように利用してんのちゃうんか。」
「……ひどい。あたしのこと、そんな風に思うてたの?」
若葉は立ち止まり、惣一郎の方に躰を向けて、本気で憤慨する。
「あたしのこと迷惑なんやったら、迷惑ってはっきり言えばええやない!」
「…誰も、そんなこと言うてへん。」
話が違う方向に燃え広がってしまった、売り言葉に買い言葉の俺が悪い。惣一郎はそう反省しながらも、これまで若葉と一緒に歩いてきた道程に、ひどく徒労を感じて虚しくなり、投げやりな言葉で若葉を突き放す。
「…もう、そんなに嫌なら、着物もお茶もやめたらええ。うちにも来るな。」
若葉はしばらく惣一郎を睨みつけていたが、やがて無言のまま歩き始めた。そして、自宅マンションの前に着くと、一応「ありがとう」とだけは言い残したが、惣一郎の方を振り返らないまま、エントランスロビーの奥へと消えて行った。
(続く)
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