【創作大賞2024恋愛小説部門】早春賦 #35「雪解け」
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スーさんは黙ったまま惣一郎を見つめている。惣一郎もまた、額を床に擦り付けたまま微動だにしない。
張り詰めた沈黙がしばらく続いて、ようやく、スーさんが口を開いた。
「オレが力を貸したるかどうかは、お前の料簡次第やな。見返りに何をくれるつもりや。」
惣一郎はひざまずいたままで上体を起こすと、手を両腿の上に置き、姿勢を正した。後ろに掻き上げていた灰色の長い前髪が、一筋、額に落ちた。
惣一郎は、スーさんの目をまっすぐ見て、きっぱりと言い切った。
「店でも家でも、なんでも好きなようにして貰うてかまいません。」
スーさんは、惣一郎の言葉に意表を突かれた。
若葉に付きまとう男一人を追い払うだけのために、こずえが遺した店も家も手放すなどと、本気で考えているのか。それとも、オレがそんなケチ臭い真似をする訳がないと、高を括っているのか。あるいは、大仰な態度で訴えれば、オレが情にほだされるとでも。
スーさんは、惣一郎の真意を量りかね、その顔をまじまじと見た。惣一郎は黙ったまま、スーさんから目を逸らさない。しばらく見つめ合って、スーさんは得心した。
惣一郎は、若葉のために我欲を捨てて五体を投げ出した、それだけなのだ。若葉さえ助けられればそれで良い、その結果、何が起ころうと全て引き受ける、そう腹を括っているだけなのだ。そこには、何の損得勘定もない。
こずえを愛人にした時のオレは、今の惣一郎とほぼ同い年だったはずだ。
あの頃のオレに、今の惣一郎と同じだけの分別と潔さがあったなら、浅はかな考えでこずえに手を出すことなどなかったはずだ。
今の惣一郎が若葉に対して抱いているのと同じだけの情愛を、あの頃のオレがこずえに抱いていたなら、こずえにあんなむごい死に方をさせずに済んだはずだ。
そうすれば、惣一郎をこの年になるまで長く孤独に引き留めなくて済んだはずだ。
そこまで考えたところで、スーさんは自身から感傷的思考と自己陶酔を切り離した。そして、まるで部下への業務伝達かのように淡々とした口調で、惣一郎に言った。
「若葉のことはどうするつもりや。」
「俺が一生、面倒を見ることに決めました。」
「ふうん。若葉と一緒になるんか。」
「はい。」
「そうか。お前がそう覚悟を決めたんやったら、俺はそれだけでええ。他には何も要らん。」
「…引き受けてくれはるんですか。」
スーさんがあまりにもあっさりと承諾してくれたので、惣一郎は拍子抜けし、一気に緊張が解けそうになる。
「その程度のこと、造作もない。後のことは康子に相談しとけ。あいつが上手いこと段取りつける。」
「ありがとうございます。よろしゅうお頼み申します。」
惣一郎は、スーさんを見つめたまま晴れやかな笑顔を浮かべ、明るい声で礼を述べると、再び床に額をこすりつけた。
スーさんは、惣一郎が自分に笑顔を向けたことが俄かには信じられず、デスクに肘をついたまま、呆気に取られている。
床に突いた惣一郎の手を見ると、安堵のせいか小さく震えている。あの、何事にも感情を動かさなかった惣一郎が。
「お前、いくつになった。」
「四十一です。」
「そうか。随分と、遅咲きやったな。」
惣一郎は立ち上がり、折り目正しく最敬礼をして、会長室を出ていった。
独り残されたスーさんは、銀縁の丸眼鏡を外し、目頭をキュッとつまんだ。しばらくの間そうした後、顔から手を離し、マイクのスイッチを押して会議再開の号令をかけ、大型モニターに向き直った。
(続く)
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