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短編 | 七味唐がらし sideA:善光寺

「はい。これ、お土産よ」
僕の目の前に、妻が小さな紙包みを差し出した。開くと、七味唐がらしの小さな缶が転がり出た。
「善光寺の門前にね、『八幡屋礒五郎』というお店があるの。とっても素敵なインテリアで有名なのよ」
僕は缶から目を上げて妻を見た。三十五歳になる妻は、その日の夜、我が家に戻って来たばかりだった。一泊二日の長野旅行で心身ともに満たされたのだろう。夫の僕から見ても美しい妻が、一際輝いていた。僕は微笑を浮かべて彼女に言った。
「ありがとう。美味しくいただくよ」

それ以降、妻は、長野に縁があるわけでもないのに、年に数回、長野旅行に出かけた。山深い長野が心の原風景にぴったりと合っているのだと、彼女は言った。
ある時は諏訪に。ある時は安曇野に。ある時は小諸に。そして、どんなに遠回りになっても必ず善光寺を参詣して、『八幡屋礒五郎』の唐がらしを僕への土産に買って帰った。それを僕の前に差し出す妻は、まるで若い娘のように華やいでいた。

妻の一人旅に僕は同行しようとしなかった。妻にとって、長野への小旅行がどれほど心の潤いになっているか、僕はよく知っていたのだ。
我が家の冷蔵庫に、『八幡屋礒五郎』の小さな缶が増えていった。
ある時は、ゆず七味。ある時は、粉山椒。
妻の旅行中、それらの香辛料を料理にふりかけては、今頃妻はどうしているだろう、楽しい時間を過ごしているだろうかと考えながら、口に運んだ。


長野旅行を始めて七年後。
妻は四十二歳で亡くなった。長野から帰京したその日に、中央線の快速の中で突然倒れたのだ。僕が救急センターに駆け付けた時、妻は人工心臓マッサージで辛うじて命を繋いでいたが、蘇生の見込みはなかった。僕の同意を得て機器が外され、彼女の心音が途絶えた。最後まで意識が戻らずじまいだった妻を、僕は、強く強く抱き締めた。

長野旅行の直後に死んだことが、せめてもの救いだった。きっと彼女は、長野旅行で心身ともに満たされていたはずだ。そして、幸福な気持ちのまま脳の動脈が破れて、苦しむことなく意識を失ったはずだ。


妻の通夜と葬儀が終わり、僕は一人、自宅に取り残された。
妻の旅行中も一人で過ごしていたのに、それとは比較にならないほどの静寂が僕を押し包んだ。
僕は、一人で使うには広すぎるダイニングテーブルの上で、香典を整理した。香典返しを送るために、弔問客一人一人の住所と氏名をエクセルに入力していった。
ある香典を開いて、僕は手を止めた。
「長野県長野市」という地名が目を引いた。名前は、聞き覚えのある男性だった。

僕は妻の名刺フォルダをパラパラとめくり、その名前を発見した。
その名前を、一時期、妻はよく口にしていた。大学時代のサークルの友人で、とても気持ちの優しい人なのだと言っていた。大学を卒業して以来、縁遠くなっていたのに、たまたま善光寺で再会したのだと言っていた。

僕はしばらく逡巡したが、やがて意を決してスマホを取り出すと、名刺にある電話番号をタップした。しばらく呼び出し音が鳴ったあと、中年男性の低く柔らかな声が聞こえてきた。僕は「落ち着け」と自分に言い聞かせた。そして、努めて冷静に、ゆっくりと、言葉を発した。
「はじめまして。吉田と申します。吉田奈津子の夫です。このたびは、奈津子が大変お世話になりました」
電話の向こうで息を飲む気配があって、そののち、沈黙が続いた。きっと彼は、僕になんと返答していいものかわからずに、ひたすら動揺しているのだろう。僕は彼の代わりに言葉を繋いだ。
「いえ、僕はあなたを責めたくて電話しているんじゃないんです。心から感謝しているんです。奈津子を愛してくれて、本当に、ありがとうございました」
スマホの向こうで、彼の息が詰まった。そして、低く震える声が、僕の耳に流れてきた。
『いえ、僕の方こそ、ありがとうございました』
その後、僕は弔問の御礼を形式的に告げて、電話を切った。


僕は随分前から知っていた。
本当は、妻は長野旅行に出かけていないことを。
善光寺にも行っていないことを。
何故なら、長野旅行に出かけているはずの彼女を、東京の雑踏の中で見つけたことがあるからだ。その隣に寄り添う、温和な表情の男性の姿も。

長野旅行を装って、妻は長野の男と東京で会っていた。そして、男から渡される小さな缶を、旅行の土産として僕に手渡していた。
妻がわざわざ東京で男と会う理由を、僕は薄々わかっていた。

きっと妻は、僕に気付いて欲しかったのだ。自分が他の男と会っていることを。他の男と会うことで、心身ともに満たされていることを。そうでなければ、僕の職場の近くで、男と並んで歩くはずがない。あんな風に腕を絡めながら。


周囲が知れば、僕たち夫婦の関係は異常に見えるだろう。
夫に不倫を見せつける妻。それを知りながら、妻を愛し続ける夫。

でも僕は、彼女の不倫に救われていた。そして、彼女の優しい嘘に救われていた。妻は僕たちの結婚生活を健全に維持するために他の男と会っているのだと、心から信じた。妻は他の男の腕の中で、終始、僕のことを想っているはずだと、心から信じた。

妻は、他の男と関係を持つことで、僕が妻に対して長らく抱き続けている負い目を、軽くしてくれていたのだ。


僕は、もう随分前から糖尿病を患っていたために、男性としての機能を失った。そのことが、妻と僕を苦しめた。僕は何度か、まだ若かった妻に離婚を切り出した。
しかし妻は、涙を浮かべて頭を強く横に振った。そして、「絶対に別れたくない。あなたのことを心から愛してる。どうか死ぬまで一緒に居させて。お願い」と泣いた。そんな妻を見て、僕も涙を流した。そして、本当に申し訳ないと、頭を下げた。


僕は、たった一人、冷蔵庫を開いた。
たくさんの小さな缶が、扉の裏に並んでいた。
これは、僕に対する、妻からの愛の残滓だ。

僕は、ぎっしりと並ぶ中から、妻が最初に買ってきた七味唐がらしを手に取った。そして、その小さな缶を額に押し当てながら、妻の切ない気持ちを想い、一人で泣いた。


<短編_七味唐がらし sideA:長野旅行  了>

(次話)




この短編は、まいたく様の記事からインスピレーションを得て書きました。

まいたく様、無茶振りリクエストにお応えしましたが、いかがでしたか?


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