短編Ⅷ | 真夏の果実 2/2
それから20分後。
お客さんは呑み慣れないウォッカで酔い潰れて、カウンターに突っ伏した。一方でマスターは、作業台に両手をついて身体を支え、うつむいたまま目を閉じていた。二人の前には、それぞれ、ショットグラスが1ダースずつ並んでいた。
私は、お客さんが急性アルコール中毒になってしまったのではないかと、気が気でなかった。私の心配を察して、マスターは目を閉じたままで言った。
「大丈夫だ。ちょっと寝かせとけば、すぐに酔いが覚めるだろう。この客に飲ませたのは、ほとんど水だからな」
「…水?」
「残りが少なくなっていたボトルに、水を足して薄めたんだ。酒が弱い客に、ウォッカをストレートで飲ませる訳にはいかないだろ。たぶん、この客、自己暗示にかかって酔い潰れたんじゃないか」
「…じゃあ、マスターが飲んだのも?」
「いや、俺のはストレートだ。そうしないと、フェアじゃないから」
「…マスターの方が不利じゃない」
マスターはしばらくの間、作業台に両手をついたまま黙っていたけれど、少しして、低い声で呟いた。
「神様に賭けてみたんだ。俺とおまえが、これからも一緒にいて、いいのか、どうか」
私は驚いて、マスターを凝視した。マスターは目をつぶったまま、ゆっくりと背筋を伸ばし、手を腰骨に当てて、大きく息を吐いた。
「この客が店に来るようになってから、ちょっと考えていたんだ。おまえには、やっぱり、同年代の男のほうが似合うんじゃないかって。この客と話すときのおまえは、とても楽しそうだったから、やっぱり、同年代のほうが盛り上がるんだなって。…それに」
「…それに?」
「将来、俺が年をとって死んでしまったら、そのあとおまえは、長い間一人ぼっちになってしまうだろ?そんな寂しい思いをするのは、つらいだろ?だったらやっぱり、歳が近い男と一緒に人生を過ごすほうがいいんじゃないかと、思ってた。だから、飲み比べして俺が負けたら、この客にチャンスをやろうと思ったんだ。おまえだって、そのうち、この客のことを気に入るかもしれないし」
「…それで、私がマスターから離れたら?」
「その時は、仕方がない。神様の思し召しだ」
マスターがそんなことを考えていたと知って、私はとても驚いたけれど、同時に、「いかにもマスターらしい」と思った。
マスターは、いつもそう。自分の感情を後回しにして、理詰めでモノを考える。そして事態が動き出して初めて、自分の感情に気がつく。
私が家出したときも、そうだった。理詰めで考えて私を追い出そうとしたくせに、実際に私が家出をしたら、泣きながら探し回ってくれたもの。
私がマスターの家に引き取られたときも、そうだった。店に泊めるのも家に泊めるのも同じだなんて、まるで仔猫を拾うみたいに言ったけど、本当は、私のことが好きになったから、連れて帰りたかったんでしょ?
本当は…初めて会った時から、私に惹かれていたでしょ?他の男と一緒だった私を、ずっと、目で追っていたでしょ?
でもマスターは、自分でそのことに気づいていないよね。
もしも私が、このお客さんと二人で海に行くことになってしまったら、マスターはどうしただろう。血相を変えて引き留めてくれたかな。それとも、こっそり尾行してきたかな。
…マスターがどんな行動に出たか、ちょっと見てみたかったな…
私はそんなことを考えながら、マスターの顔を見つめていた。私がずっと黙ったままなので、もしかしたらマスターは、また私がマスターから突き放されたように感じて寂しくなっているんじゃないかと、そう思ったかもしれない。
マスターは私を見て、はにかんだように笑った。
「でも、絶対に俺が勝つって、思ってた」
…もう、無茶しすぎ。
私はマスターのことを、心から愛おしく思った。同時に、他の男に心変わりするような女だと思われたことが憎らしくて、ちょっと意地悪したくなった。
「…ふふ」
「なんだ、何かおかしいか」
「…今のって、もしかして、プロポーズ?」
「え?」
「…だって、死ぬまで私と一緒にいてもいいのかって、神様に賭けたんでしょ?それで勝ったんでしょ?つまり、死ぬまで私と一緒にいるって決めたんでしょ?」
マスターはちょっと動揺した顔をして、口をパクパクさせた。
…ふふふ。焦ってる、焦ってる。
きっとマスターは、プロポーズなんて、そんなつもりは全然なかっただろうけど、今、私の前でそれを全否定したら、私がまた家出しちゃうかもって、心配になっているよね。あ、何も言わずにあっち向いちゃった。もう…本当にかわいい。
マスターは「久しぶりに飲んだから目が回る」と言いながら、カウンター廻りを片付け始めた。私は、お客さんの前に並ぶショットグラスをトレイに乗せながら、マスターに尋ねた。
「…ねえ、どうしてさっき、私のことを『娘』なんて言ったの?」
「他にいい言葉が思いつかなかったし、この客から見たら、『娘』ってのが一番しっくりくるだろうと思ったんだ。こんなに歳の離れたおっさんが、おまえのことを、彼女とか、恋人とか、オンナとか、そんな風に言うのは気色悪いだろ。きっとこの客だって、簡単には納得しないだろうし、パパ活してると勘違いされたら、いろいろ面倒だろ」
「…気をつかうのね」
…年齢のことを、そんなに気にしなくていいのに。
もしかして、ずっと前に私が「理想のお父さんみたい」って言ったのを、まだ気にしてるのかな。今はそんなんじゃないって、態度だけではわからない?
私はショットグラスを洗い桶の中にポチャポチャと並べた。そして、マスターの背後に立ち、そっと両腕を回して後ろから抱きしめた。
「…じゃあ、お客さんが目を覚ましたら、こんな風に言ってもいい?『マスターはお父さんじゃなくて、私の、とっても、とっても、大切な人です』って」
マスターは斜めに振り向くと、私の顔を見下ろしながら、「なるほど、そういう言い方があったか」と言って、切れ長の目を少し見開いた。
私はふふ、と笑って、「そうよ。マスターは私の、とっても、とっても、大切な人よ」と呟くと、大きな背中に身体をもたせかけた。
そして、マスターの大好きな『真夏の果実』を小さく歌いながら、踊るようにゆったりと揺れた。
四六時中も好きと言って…
夢の中に連れて行って…
<短編v8 真夏の果実 了>
(次話)