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【創作大賞2024恋愛小説部門】早春賦 #01「若葉」

《あらすじ》
俺の人生は、どうせ死ぬまで雪に閉ざされる。でも、お前には、必ず春が来ますように。俺の分もたくさん芽吹いて、たくさん花を咲かせますように   

北新地のバーで働く若葉は、少女時代に大切な人を失い、絶望的な寂しさを抱えて生きている。
暗い過去を引きずり、周囲に心を閉ざしながらも、若葉のことを実の娘のように気にかけている、中年バーテンダーのモクさん(惣一郎)。

おおらかで社交的なママ。ママのパトロンで、かつてモクさんの母親を愛人にしていたスーさん(親父さん)。
この二人もまた、ある罪の意識に苦しんでいる。

心に傷を負い、冷たい雪に閉ざされた四人が、早春の移ろいを経て、本格的な春を迎えるまでの物語。

目が覚めそうになって、若葉は必死で抵抗した。

…お願い、どうか、もう少しだけ待って。やっと弟に会えたんだもの。

長いこと、会いたいと思い続けて、やっと願いが叶ったんだもの。たくさん抱きしめたい。たくさんお話ししたい。たくさん頬ずりしたい。

それなのに、白く輝く夢の世界が、どんどん霞んで消えていく。


必死で抵抗したのに、とうとう目が覚め切ってしまった。強く抱きしめた感触さえも薄れて消えたことが悲しくて、若葉は枕に顔を押し当てながら、わあわあと号泣した。

そうして、ひとしきり泣いた後、若葉はしゃくり上げながら上体を起こし、パジャマの袖で涙を拭った。そのパジャマの袖が、妙にゴワゴワと固くて、全然、涙を吸ってくれない。
そういえば、さっき突っ伏した枕も、なんだか弾力があって固かった。

おかしいな、と思って顔を上げると、至近距離にモクさんがいた。若葉は驚いて小さく悲鳴を上げ、その拍子に躰のバランスを崩し、横ざまに倒れた。
とっさにモクさんが腕を掴んでくれたおかげで転がり落ちずに済んだが、若葉はそのままズルズルと、ソファから床へと滑り落ちていった。


「これは一体、どういう状況なんやろうか。」

固いフローリングの上に正座して、若葉はモクさんを見上げた。
モクさんは呆れかえった顔をして若葉をちらりと見たが、すぐに、手に持っている新書に視線を戻し、無愛想にポツリと呟いた。

「…お前に、絡まれた。」

あたしに絡まれた…?

若葉は、まだアルコールが抜けきっていない頭を一所懸命に回転させながら、ソファに座るモクさんを眺める。

…モクさんは、あたしが勤めるバーのバーテンダーだ。 四十歳くらいのはずだけど、白髪がとても多いから、もっとおっさんに見える。
灰色の長い前髪をいつも後ろに撫でつけていて、目つきが悪くて、頬がこけてて、少しエラが張ってて、左頬には深く長い傷があって、まるでヤクザみたいだ。
身長は百八十五センチくらいだけど、がっしりとした体格なので、もっと大きく見える。
普段は黒シャツと黒パンツの上に黒いギャルソンエプロンを巻いているけれど、今日は黒いジャージの上下を着ている。そのジャージの肩と太腿がテカテカに汚れているのは、どうしてなんだろう。

そもそも、あたしはどうしてお店にいるんだっけ。

ああ、そうか。

確か彼氏の部屋でフラれちゃって、始発の電車に乗ってお店に戻って、一人でお酒を飲んでたんだった。途中から記憶がないけど、多分、いつもみたいにソファ席で寝ちゃったんだな。

今、何時?もう昼の一時か。
あれ?ニットワンピースを着ていたはずなのに、なんでこんなにブカブカのベンチコートを着ているんだろう。ベンチコートも、あちこちがテカテカに汚れている。

若葉がベンチコートを撫でながら首を傾げている横で、モクさんはしばらく新書を読んでいたが、思いついたようにソファから立ち上がり、カウンターの裏から数本のおしぼりとタンブラーを持ってきて、若葉のそばのテーブルに置いた。

「ありがとう…。」

若葉は素直に受け取って、タンブラーの水を少し飲み、熱いおしぼりで顔を拭いた。モクさんは終始無言だったが、若葉には、顔を拭けと言われているように感じたのだ。おしぼりに、ファンデーションやらマスカラが、コッテリとこびりつく。若葉は、おしぼりを取り換えながら、厚化粧を綺麗に拭き取る。
モクさんは再びソファに座り、新書の続きを読んでいる。

…あたしがこの店に来て、もう三年になるけれど、モクさんとまともに会話したことが一度もない。

まともに目が合ったこともない。

挨拶をしても黙って小さく頷き返されるだけだし、話しかけてもスルーされる。あたしに対してだけでなく、誰に対してもそうだ。
どうしてママは、こんなコミュ障なおっさんを雇っているんだろう。

そういえば、今日は定休日のはずなのに、どうしてモクさんはお店にいるんだろう。

状況が理解できなくて首を傾げてばかりいる若葉を、モクさんはちらりと見る。さっきは「絡まれた」と簡単に言ってのけたが、実際はそんな簡単なものではなかった。

定休日、モクさんはいつも十四時に店に来て、普段は手が回らない事務作業を片付けることにしている。今日はたまたま、午前中に提出しなければならない書類があったため、ジムに行く前に店に寄ることにした。

朝九時。

黒いジャージの上下に黒いベンチコートを羽織った姿で店のドアを開けると、真っ暗なはずなのに灯りが付いている。

おかしい、昨日の退室時に消灯したはずだ。

いぶかしみながら足を踏み入れると、カウンター席のすぐそばに、人が倒れていた。モクさんは心臓が止まりそうなほど驚き、急いで駆け寄った。倒れているのは若葉だ。

「若葉、若葉!」

頬を何度も叩くが、反応がない。口元に手を当てると、呼吸をしていることだけは確認できた。

急性アル中か、脳卒中か…

全身から血の気が引いていくのを感じながら、モクさんは急いでスマホを取り出し、画面をタップする。息が苦しくなり、指先が痺れ始める。過呼吸の発作を起こさないよう、敢えて息を止める。

大丈夫だ、落ち着け、俺。とにかく早く救急車を呼ばないと。

その時、「んんん」と小さく伸びをしながら、若葉が小さく寝返りを打って横向きになった。モクさんはスマホを握りしめたまま、若葉の顔を凝視する。若葉は小さく口を動かし、フフフ、と少し笑う。

「…なんや、酔っ払って寝てるだけか。」

モクさんは緊張が解けてヘナヘナとしゃがみ込み、長く息を吐いた。そして再び若葉の寝顔に目をやりながら毒づいた。

「…お前、人を驚かすなや。寿命が縮んだやろ。」

当然、眠りこけている若葉は何も反応しない。

しばらく経ち、気分が落ち着いたところで、モクさんは改めて、床に寝転がっている若葉の姿を眺めた。
胸元がV字に深く切れ込んだミニ丈のニットワンピースを着ているが、肩はずり落ちて下着が露わになり、裾は大きくめくれ上がって、随分としどけない姿になっている。

「…しゃあないな。ソファに移すか。」

モクさんは着ていたベンチコートを脱ぐと、若葉の全身をすっぽりと手早くくるみ、横抱きに抱え上げた。そしてソファ席まで運び、そっと下ろそうとした。

すると突然、眠りこけているはずの若葉が、両腕をモクさんの太い首に巻き付け、「嫌や。ずっと抱っこしててほしい。抱っこしてて」と駄々をこね始めた。無視してソファに下ろそうとすると、強くしがみついて抵抗する。

そのやり取りを何度か繰り返し、モクさんは仕方なくあきらめて、若葉を抱き上げたまま、あやしてやった。

しばらくして、腕の中の若葉がようやく静かに寝息を立て始めたので、そっとソファに寝かせ、その場を離れた。

「…朝から疲れた…。」

そう独り言ちながら、モクさんがトイレに入って出てくると、眠ったはずの若葉がソファの上にうずくまり、肩を震わせて泣いている。
全身をくるんでいたはずのベンチコートは床に落ち、ニットワンピースは大きく着崩れて、目の遣り場に困る状況となっている。
「…マジでか。」

ひとまず若葉を泣かせたままにしてカウンター奥の控室に入り、キャビネットから午前中に提出しなければならない資料を取り出す。
それから、カウンターの上でビジネスリュックを開き、ノートパソコンと水筒と読みかけの新書を取り出して、ソファ席のテーブルに並べる。

そうしておいて、若葉のそばにしゃがみ込むと、若葉が泣きながら「抱っこして」と両腕を伸ばしてくる。
「ちょっと待っとれ」そうあやしながら、両腕にすばやくベンチコートの袖を通して全身を包み、首元までファスナーを上げてから、再び抱き上げてやる。
若葉はモクさんの肩に顔を押し付けて、子どもみたいにシクシク泣いている。その時点で、モクさんのジャージは、若葉の涙と鼻水と化粧でぐしゃぐしゃに汚れている。

若葉が落ち着いたところで、若葉を横抱きにしたままソファに腰を下ろし、左腕で若葉の上体を抱えながら、右手でパソコンを立ち上げる。
片手のみを使って書類データを作成し、資料をスマホで撮影して画像を取り込み、それらを圧縮ファイルにまとめてロックをかけ、税理士にメールで送る。

また若葉がぐずり始め、「寂しい、もっと、ぎゅうっとして」と首にしがみつくので、黙って抱きしめてやる。
若葉が落ち着いたところで、若葉を抱きしめたまま手でスマホを取り出し、メールを送った旨の伝達と圧縮パスワードを、税理士にラインで送る。
併せて食材の取引業者に、本日の配達時間の変更依頼をラインで送る。
一応ママにも、若葉が店で酔い潰れている旨の伝達をラインで送る。

他にも様々な業務連絡をラインで送っているうちに、若葉が寝息を立て始めたので、そっとソファに寝かせる。
また泣かれると難儀なので、ひざ枕をしてやって、肩をトントンと叩きながら新書の続きを読む。若葉は片手でモクさんの太腿をしっかりと掴んだまま、放さない。

そうすること三時間余り。若葉がやっと目を覚まし、もぞもぞと起き上がった。
ソファの上で横座りになり、しばらく半眼でぼんやりとしていたが、突然、わああと泣きながらモクさんの太腿の上に突っ伏した。当然、モクさんの太腿がぐしゃぐしゃに汚れる。

そうしてひとしきり泣いた後に、若葉は再びむくりと上体を起こし、モクさんと目が合ったところで小さく悲鳴を上げ、ソファから落ちたのである。



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