見出し画像

短編Ⅶ | with 3/3

市ヶ谷の老舗中華料理店で、仔猫の父親と俺は落ち合った。

注文を取りに来た店員が個室内から消えたところで、父親はカバンから白く分厚い封筒を取り出すと、おもむろに円卓の中央に置いた。そして、突然ガバッとテーブルの上にひれ伏して、「どうか、どうか、これで許してください」と俺に懇願した。

俺は意表を突かれて困惑したが、少し経って、苦い思いが喉元に込み上げてきた。

…そうか、俺のことを調べるうちに、親父さんに行き着いたか。

若い頃、俺が悪事をしでかすたびに、親父さんが奔走して揉み消してくれた。親父さん自身はただのスケベな実業家だが、その一族の権力がものを言った。…俺はこの歳になってもまだ、親父さん一族の庇護下にあるのか。

これは仔猫との手切れ金なのだろうと想像しつつも、一応の礼儀をわきまえて、俺は仔猫の父親に尋ねた。

「なんの真似ですか、これは」

仔猫の父親は俺にひれ伏したまま言った。

「あの子からいろいろと聞いているでしょう。どうかどうか、そのことは他言無用とさせていただきたい」

…なんだ?
これは手切れ金ではなく、何かの口止め料なのか?

「そのこと、とは?」
「あの子の母親と、妹の話ですよ」
「いや、全く聞いた覚えがないが」

仔猫の父親はギョッとした顔で俺を見たあと、唇を噛みしめた。かつて仔猫から『とても怖いお父さん』と聞いた記憶があったので、父親は相当いかつい強面だろうと想像していたが、実際に俺の目の前に座る父親は、貧相で、額が剝げ上がって、凡庸な顔つきをした小男だった。仔猫のかわいらしい顔は、母親似なのだろうか。仔猫の妹は、若干、父親に似ているように思われる。

俺は改めて、仔猫の父親に問うた。

「…つまり、これは、手切れ金ではないと?」
「はい…」
「ちょっと整理させてもらいたいが、あんたはあいつを、どうしたいんだ」
「どうしたいも、何も…」
「俺と別れさせて、連れて帰りたいんじゃないのか?」
「そんなつもりは毛頭ございません…」

俺は頭が混乱した。

「ええっと…順を追って説明していただきたい。俺はあいつから何も聞いていないが、あんたは一体、何を口止めしたいんだ。ここまで来たからには、俺があいつから聞こうと、あんたから聞こうと、同じだろ。全部ここで話してくれ」
「……」
「大丈夫だ。俺は誰にも言わない。それにあんた…そんなに脇が甘くてどうするんだ。実は誰かに聞いてもらいたいんじゃないのか。自分が抱えている秘密の全部を」

父親は唇を噛みしめてうつむいていたが、しばらくして顔を上げた。

「あなたは、あの子が選んだお人だ。きっと信頼できるのでしょう」

そうして、仔猫の父親が話し始めた内容に、俺は驚愕した。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

…はい。
既にあなたがご存知のとおり、わたしの家は代々の山持ちでございます。正確には、あの子の母親が跡取りで、わたしは分家から婿養子に入ったんでございます。

あの子の母親にとって意に染まぬ結婚であることを、わたしは重々承知しておりました。わたしはこのとおり、風采の上がらぬ男です。地元の国立大を卒業した後、公務員として地味に過ごしているのを見て、この男なら浪費をせずに山を守れるだろうと、本家から見込まれて婿養子に入ったのです。

あの子の母親が全身でわたしを拒絶していることは、よくわかっていました。でも、わたしたちは後継ぎを作らなくてはならなかった。あの子の母親が屈辱に耐え続けていたことは、私自身の苦しみでもありました。

そうして最初に、あの子が生まれました。生まれたのが女だとわかって、親戚一同は落胆しました。次に生まれたのも、女の子でした。やはり親戚一同は落胆しました。そして、三番目を妊娠して、性別が女だとわかったとき、あの子の母親は「中絶したい」と言い出しました。しかし、義父母がそれを許しませんでした。「中絶などして子どもを生めなくなったらどうする。次こそは、男児を生まなければならないのに」と。

あのとき、きっと、あの子の母親は限界を迎えたのです。

あの子が10歳のとき、私たちは中禅寺湖に小旅行に向かいました。ボートに乗って漕ぎ出そうという段になって、5歳の次女がぐずり出し、わたしと次女だけが岸に残って、あの子と母親と三女が、ボートに乗って漕ぎ出しました。

そうしてしばらくして…わたしは、あの子が泣き叫ぶ声を聞いたのです。

救助の人に助けられて、あの子が岸に戻ってきたとき、わたしはあの子に事情を問いただしました。あの子は泣きながら言いました。「お母さんが、赤ちゃんを抱っこして湖に飛び込んだ。私には止められなかった」と。
それを聞いて、私は戦慄しました。跡取り娘が子どもと無理心中を図ったなどと、世間に知れたらとんでもないことになる。

私はとっさに、あの子に命じました。「おまえが誤って赤ん坊を湖に落としたことにしろ。落とした赤ん坊を助けようとして、お母さんが湖に飛び込んだことにしろ」と。

あの子は私の言いつけを忠実に守りました。親戚一同はあの子を白い眼で見ましたが、あの子は何の弁明もせずに、ひたすら黙って耐えました。そうして二十歳はたちを迎え、親戚が縁談を持ちかけたとき、あの子は前触れもなく家からいなくなったのです。

あの子が生き方知れずになって、正直、わたしはホッとしました。これまでずっと、あの子がいつ真実をぶちまけるかと、気が気でなかったのです。次女には「探偵を使ったけど見つからなかった。もうあきらめろ」と言いました。しかし次女はそれに納得せず、あの子をずっと探し続けました。

そうして次女は東京にいるあの子を探し当てて、あなたの元に参りました。その一部始終を次女から聞いて、私は再び戦慄しました。次女が会いに行ったことで、あなたに私たちの身元が知られたのではないか。そしてあなたは、私たちの身内の恥を暴くのではないか。
それだけは勘弁願いたいのです。どうか、分家から婿養子に入ったわたしの立場をお考えになって、黙っていていただきたいのです。

東京で生まれ育ったあなたには、到底、理解できない世界でしょう。しかし、わたしたちには、先祖代々の山を守って、次に繋ぐことが使命なのです。それができなければ、わたしの存在価値など、ないに等しいのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

俺は唖然として、目の前でひれ伏す父親の禿げ頭を見つめた。正直、俺には全く理解できなかった。どんな立派な山持ちなのかは知らないが、家の恥をさらさないために、娘にそんなむごい虚言を強いるなど。

「…頭を上げて下さい。事情はよくわかったので」

俺は、円卓の真ん中に据え置かれている白い封筒を眺めた。きっとこの父親は、俺がこのカネを受け取らなければ安心できないのだろう。

俺はその白い封筒を手に取って、上着の内ポケットに入れた。そして手帳を取り出して、何の法的効力も持たない秘密保持誓約書をしたためると、そのページを引きちぎって父親に渡した。

「あいつのことなら、安心してください。俺が引き受けるので」

仔猫の父親は心底ホッとした表情をして、再び俺に頭を下げた。俺と大して歳が変わらないだろうに、随分と小さく、老けて見えた。

帰り道、俺は仔猫にどう向き合ったものかと、考えあぐねた。今日も仔猫を自宅に残し、俺は店に出勤する態で家を出た。このまま黙っていれば、何の波風も立たないだろう。

自宅に戻って玄関を開けると、室内は真っ暗だった。まさか仔猫が家出したのかと思い、俺は慌ててリビングに入った。リビングでは、暗闇の中で仔猫が窓辺に佇み、先日と同じように雪景色を眺めていた。

その小さな背中を見た途端、俺の中に、仔猫のやりきれない悲しみが一気に流れ込んできた。思わず俺は仔猫の背中を抱きかかえ、ミルクティー色の髪に顔をうずめた。

…こいつには絶対に嘘をつけない。嘘をつけば、俺はたちまち、こいつに寄り添えなくなる。

「今日、おまえの父親と会ったぞ。おまえのことを、全部聞いた」

俺の腕の中で、仔猫の身体が緊張した。

「…そう。そんな気がしてた。今日のマスターは、いつもと違っていたから」
「おまえには、俺がついているから大丈夫だ。俺に全力で甘えろ。おまえの全部、俺がちゃんと、受け止めてやるから」

俺の腕の中で、仔猫は大きく息を吸って、吐き出した。仔猫の身体が小刻みに震えて、また泣くのを我慢しているのがわかった。

「声に出して泣けって、まえに言っただろ。俺の前では、泣き叫んでいい」

仔猫はしばらく震えていたが、やがて、涙声で話し始めた。

「…あの時ね…お母さんがボートを漕いでいたの。私は赤ちゃんを抱っこしてた。とてもかわいい赤ちゃんで、私にとって、とても大切な、とても大切な、妹だったの」
「うん」
「…湖の真ん中で、お母さんは私から赤ちゃんを抱き取ったの。そして私に…『あとのことはよろしくね』って言って、湖に飛び込んだの。赤ちゃんを抱えたまま」
「うん」
「…動物の親はね、追い詰められると、自分の子どもを食べるんですって。私のお母さんもきっと、追い詰められて妹を食べたのね。…私、お母さんの言いつけを守らなくちゃいけなかった?お母さんと同じになりたくなくて、逃げ出した私は、自分勝手…?」
「そんなことない!」

俺は仔猫を強く抱きしめて頭を振った。

「どうせみんな、自分勝手なんだ。おまえがおまえの好きなように生きて、何が悪い。おまえはおまえが好きなようにすればいいんだ」
「…私はずっと、マスターのそばに居てもいい?」
「大丈夫だ。ずっと俺のそばにいろ。さっき言っただろ?おまえの全部を受け止めてやるって」
「…うん…」

俺の腕の中で、仔猫が嗚咽を漏らし始めた。

「大丈夫だ。あの勝気な妹のことだから、親戚の意見なんて気にせずに、好きな男と結婚するだろ。そしてなんだかんだ言って、一族の山とやらを守っていくだろ。おまえはそんなこと、全然、気にする必要ないんだ」


仔猫が小さく声を立てて泣き始めて、俺も一緒に泣いた。

窓の外では相変わらず雪が降り続き、仔猫と俺の悲しみを、白く優しく、包み込んでいった。


<短編v7 with  了>


(次話)








いいなと思ったら応援しよう!