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【創作大賞2024恋愛小説部門】早春賦 #28「幸せにするには」
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惣一郎は夢を見ている。
夢の中で惣一郎は、小さな惣一郎の手を引いて歩いている。小さな惣一郎は七五三の羽織袴を身につけ、お坊ちゃまみたいな髪型をして、ツヤツヤした黒髪に天使の輪を作っている。その天使の輪を見下ろしながら、惣一郎は思う。
…ああ、俺は今、小さな俺の父親になっているのだな。小さな俺が、俺を見上げてニコニコしながら、お父ちゃん、と呼びかけてくる。
かわいいな、小さな俺は。子どもはこんな風に全身全霊で、親に愛情を伝えてくるものなんだな。俺の父親は、小さな俺からこんな風に甘えられて、さぞかし幸せな気持ちになっただろう。
二人で神社の鳥居をくぐった後、再び小さな惣一郎を見ると、さっきよりも少しだけ大きくなっていて、白い浴衣に、絞りの兵児帯を締めている。
その小さな惣一郎が、惣一郎を見上げる。いたずらっぽい目元が若葉にそっくりだ。
…ああ、この子は小さな俺じゃない。若葉の死んだ弟だ。聞いていたとおり、イガグリ頭でぽっちゃりとした顔の、アナベルの白い花に似た、とても可愛らしい子だ。
「お前、俺なんかに会いに来んで、お姉ちゃんとこに行ったれや。」
そう声をかけると、若葉の弟が懸命に何かを訴えてくる。「なんや、聞こえへんぞ」と言いながら、抱き上げてやると、若葉の弟は、小さなかわいい手で俺の左頬の傷に触れながら、俺の耳元でひそひそ話をする。
それを聞いた俺は、若葉の弟に笑って言う。
「おお、それはええ。お姉ちゃんはめっさ喜ぶやろ。俺も嬉しい。」
バイブ音が聞こえて、惣一郎はゆっくりと目を開いた。朝の10:00だ。目を開けるとともに、若葉の弟の姿が掻き消えた。惣一郎はぼんやりと天井を見つめる。目尻から、涙が一筋、流れ落ちる。
アラームはしばらく鳴り続け、やがて自動で切れた。
遮光カーテンを閉め忘れた窓の向こうに、どんよりとした薄曇りの空が広がっている。
今日は若葉のお華の稽古日だが、おそらく店には来ないだろう。この一週間、若葉は店に現れず、惣一郎に何の連絡も寄越さなかった。
…やっぱりお前は、親父さんを頼るのか。
惣一郎は、スウェットの袖口で目を覆う。
…最初からわかっていたことだ。ママの占いが現実になるとしても、若葉の運命の人は俺ではない。俺では若葉を幸せにできない。若葉の相手は、若葉をちゃんと幸せにできる、真っ当な男であるべきだ。
親父さんは、創業して間もない会社を、一代であれだけ大きなグループ企業に成長させた人だ。頭が良いし、度胸もあるし、統率力もある。人間の器が大きくて、世間の信頼も厚い。
仕事であれだけ多忙を極めながらも、俺の母親を見捨てずに、最後まで面倒を見てくれた。
あの人の方が、俺なんかよりも遥かに恩田木工に近い。俺は親父さんの足元にも及ばない。
でも…俺の本心は、どうなのだろう。
大切な母親を親父さんに横取りされたように、大切な若葉を親父さんに横取りされるのだ。
若葉が俺の店に来て五年。二人で店を回すようになって二年。俺の部屋に通い始めて一年。
若葉をずっと見守って、ここまで育ててきたのは俺なのに。親父さんにとっての若葉は、大勢いる女のうちの一人でしかなくても、俺にとっての若葉は、たった一人の大切な家族なのに。
惣一郎は、夢の中で若葉の弟がささやいた言葉を思い出す。
「阿弥陀さまが、お姉ちゃんの子どもに生まれ変わることを許してくれた。僕はもうすぐ、お姉ちゃんの子どもになれる。今からとっても楽しみや。」
若葉の弟の生まれ変わりの父親は、親父さんなのだろうか。若葉は、あの老人の子どもを身ごもるのだろうか。そのことを考えると、惣一郎の中に凄まじい感情が込み上げてきて、耐えられなくなる。
…ジムに行かなければ。筋力と心肺機能を鍛えて、理性の軸を保たなければ。
惣一郎はいつも通り、10:30にジムの入口をくぐった。
いつも通り、丁寧にアップをこなしたあと、サンドバッグを相手にひたすら打ち込む。いつもなら軽々とこなせるメニューの、半分ほどで動きを止める。もう息が上がっている。
汗を拭おうと頬に手の甲を当てて、ヒゲを剃り忘れていることに気が付く。
「なんや、惣一郎。ここんとこ、えらい調子悪そうやな。」
突然、後ろから声をかけられ、惣一郎はびくっとする。振り返るとタケシが、いつものように二つ折りのタオルをぶんぶん振り回しながら、近づいて来る。
「今日も女のことで絶賛お悩み中か。」
「………」
「女から別れ話でも切り出されてんのか。」
「………」
「ほうほう。それでお悩み中か。そんなん、悩むほどのことやないで。」
タケシは、眉間を開いた呑気な顔で、惣一郎に言う。
「そんなん、たった一言、ずっと俺と一緒におってくれ、幸せにしたるから、って言えばええねん。それで女は、コロ、やで。」
「…あるんやな。」
「何が。」
「…幸せにする自信が。」
「は?そんなもんあるかいな。」
タケシは呆れ顔で惣一郎を見る。
「長い人生、何が起こるかわからへんのに、今、自信があってもしゃあないやんか。そん時そん時で適当にやるしかないわ。それに夫婦の人生は一本や。片方が片方を幸せにするんとちゃう、全部お互い様、共犯関係や。」
「………」
「それにな、幸せにしたるって腹を括ったら、逆に気ぃラクやで。もう、それ以外に道はないからな。あとは上手いこと行くよう、しのぎを削るだけや。」
そこでタケシは、いつものように大袈裟な身振り手振りを混えて力説する。
「ええか、惣一郎。腹を括るっちゅうのはやな、ほんまの願い事以外、全部を犠牲にする覚悟を決めるってことや。
しのぎを削るっていうんは、恥やら見栄やらをかなぐり捨てて、誰かの足元に這いつくばって泥水すすってでもやり遂げるってことや。どや、俺、なかなか、ええこと言うやろ。」
「…ええな、お前は。」
「何が。」
「…単純で。」
「は?お前も単純になったらええやんか。」
んなもん、めっちゃ簡単やで、と言ったところで、タケシは他のトレーナーから名前を呼ばれ、まあせいぜい頑張れや、と言い残して去って行った。
(続く)
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