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短編I | 迷い猫 2/2

…更に、1ヶ月後。
つまり、女が俺の店に泊まり始めてから、5ヶ月後。
その夜は、冷たい雨が激しく降っていた。

ドアに「CLOSE」のサインをかけ、俺はいつものように、女が現れるのを待った。しかし、時計が2時を過ぎ、2時半を過ぎても、女は店に現れなかった。

とうとう3時を過ぎ、俺が帰り支度を始めた頃。ドアをノックする音がした。

…やっと来たか。鍵なら開いてるぞ。

そう思いながらドアを開けると、店の前の廊下には、近所のバーの女亭主が立っていた。女亭主は困惑した表情を浮かべながら、俺に言った。

「マスター、こんな時間にごめんね。家に帰ろうと思ってこのビルの前を通りかかったら、ずぶ濡れの女の子が階段に座り込んでたの。声をかけたら、この店に行きたいって言うもんだから…」

女亭主の後ろに目をやると、あの女がうなだれて立っていた。俺は女亭主に頷いて見せた。女亭主はホッとした顔になり、女を残して去って行った。



俺は黙ったまま女の腕をつかみ、店の中に引き入れた。

…一体いつからビルの前にいたんだ。なぜ店に入ってこなかった。2月の雨に打たれたんだぞ。肺炎にでもなったらどうする。

店内の灯りの下で改めて眺めると、女はずぶ濡れな上に泥まみれだった。白いダッフルコートは泥水を吸い、まだらになっていた。コートの裾から伸びる脚は素足で、派手に擦りむいて血だらけだった。手に目をやると、長い爪のところどころが折れて、指先に血が滲んでいた。手にはヒールの折れたパンプスをぶら下げているが、バッグは持っていなかった。顔に目をやると、左頬が青黒く腫れ、口元に裂傷を負って血を垂らしていた。


…俺にこんな姿を見せたくなかったから、店に入って来なかったのか?

ずぶ濡れのダッフルコートに手を触れると、氷のように冷たかった。俺は急いで女からコートを脱がせた。コートの下は、まるで下着のように露出度の高いミニドレスだった。随分と痩せこけて、肩甲骨や鎖骨がくっきりと鋭く浮き上がり、ただでさえ細かった二の腕が、骨と皮だけになっていた。腕にも背中にも、あちこちに青あざが出来ていた。
俺は戸棚から毛布を二枚取り出し、女の身体にグルグル巻きにすると、ロングソファに座らせた。そして、大きめのボウルに湯を張って女の足元に運び、おしぼりタオルを差し出した。女は黙っておしぼりタオルを受け取ると、ボウルに浸しながら、脚の泥を落とし始めた。
その間に俺はカウンターに入り、ホットココアを作るために、ケトルを火にかけた。マグカップにココアの粉を入れながら顔を上げると、女は再びうなだれたまま、手を止めていた。両脚は泥だらけのままだ。

…どうした。大丈夫か。

俺は女の前に立ち、そっと肩に手をかけた。途端、女はビクリと身体をのけぞらせ、俺を見上げた。その顔を見て、俺もまた、ビクリと硬直した。

女は両目を大きく見開いて俺を見上げていた。その両目からは涙が洪水のように溢れ出て、頬をどんどん伝い落ちていた。それなのに女は、泣くことは罪だと言わんばかりに、必死に声を押し殺していた。肩を大きく震わせ、唇を小さく震わせて、喉元からは、ヒッ、ヒッと、引き攣れた音を漏らしていた。
俺は女の感情にシンクロしてしまい、息を止めて、きつく目を閉じた。

…この女は、あの頃の俺と同じだ。母親の情夫に殴られ蹴られ、声を上げて泣けば更に殴られ、布団の中で声を押し殺して泣いた、あの頃の俺と同じだ。

俺の感情は一気にあの頃へと遡り、思わず涙が込み上げた。俺は慌てて女から目を逸らし、動揺を押し隠そうと、女の足元にしゃがみ込んだ。そして女の震える手からおしぼりタオルを取り上げ、泥だらけの脚に手をかけた。

女の脚は氷のように冷たかった。ボウルの湯も既に冷めていた。
俺は女を見ないようにして立ち上がり、カウンターに戻った。そして大ぶりの片手鍋いっぱいに湯を沸かしながら、さっきとは別のマグカップを取り出すと、濃いめのホット・バタード・ラムを作った。再び俺は女の前に戻り、ホット・バタード・ラムが入ったマグカップを無言で押し付けた。そして、女の足元にしゃがみ込むと、片手鍋の湯をボウルに注ぎ入れ、湯加減を調整した。
女は温かいマグカップを両手で握りしめ、依然として声を押し殺し、震えながら涙を流していた。俺は女の足をボウルの湯の中に突っ込み、おしぼりタオルを使って洗ってやりながら言った。

「声を出して泣けよ。我慢するのは辛いだろ」
「……」

女はまだ声を押し殺して震えている。
俺は手を止めて、女の顔をまっすぐ見上げた。
きっと俺も、涙ぐんでいただろう。

「遠慮すんな。おまえが泣いても、俺は大丈夫だから」

俺を見つめる女の顔がじわじわと崩れ、やがて、決壊したように感情がほとばしった。女は激しく泣きじゃくりながら、か細い声で言った。

「…ご、…ごめ…な…さい…」
「謝らなきゃいけないようなこと、何もやってないだろ」

それだけ言って、俺は黙々と女の脚を洗い続けた。




ひとしきり泣かせて落ち着いたところで、女の顔の手当てに移った。口を開かせ、小さな歯の一本一本にマドラーを当てていく。ところどころの歯茎から血が滲んでいたが、歯のぐらつきはそこまでじゃない。恐らく自然治癒するだろう。

「なんで、こんな酷い目に…男に殴られたのか?」

俺が尋ねると、女はしばらく目を泳がせたのち、小さく頷いた。



手足の泥をきれいに洗い落とし、大きな傷にラップを巻いて、応急処置を終えた。女にスウェットパンツを履かせ、全身をもう一度毛布でグルグル巻きにして、氷嚢を顔に当てさせた。
ホットカクテルを飲み干して、身体が温まったのだろう。女の顔にはいつもの血色が戻っていた。俺の方は、女の脚を洗ったために太腿あたりまでビショ濡れだが、まあ、直に乾くだろう。
改めてホットココアを二人分作り、片方のマグカップを手渡しながら、俺は女に尋ねた。

「おまえ、家は?早く傷口をシャワーで洗った方がいいぞ」

女はココアを啜りながら、視線を落として黙り込んでいたが、しばらくして、小さな声で訥々と話し始めた。

「毎月、マスターのお店に泊まらせてもらっていたのはね、お給料日の朝に、家賃とか電気代を、他の口座に移すためだったの。お給料日に真っすぐおうちに帰ると、彼が私のキャッシュカードを勝手に持ってっちゃうの。それで好き勝手に使っちゃうの。だから、このお店に泊まらせてもらって、次の朝にお金を他に移して、それからおうちに帰るようにしてたの」

…随分と都合よく考えたな。俺が泊めてやらなかったら、どうするつもりだったんだ。

俺は黙ったまま、ココアを啜った。

「でも、私が他の口座を持ってることが彼にバレちゃって…そっちのキャッシュカードも持ってっちゃうようになって…だから先月は、マスターにお金を預けたの。そしたら今月は…マスターにお金を預ける前に彼がお店に来ちゃって…お金を全部使われちゃったら家賃が払えなくなっちゃう。だから私、絶対に渡しちゃダメって思ったんだけど…お店の前で揉めて…殴られちゃって…バッグごと持って行かれちゃった…」

…そんな男、さっさと別れたらいいじゃないか。

そう言いかけて、飲み込んだ。それが簡単にできるのなら、こんな酷い目に合わされていないだろう。

俺は、空になったマグカップを見つめた。マグカップの底には、溶け切れなかったココアがこびりついていた。その残りカスを見つめながら、俺はあの仔猫のことを思い出した。

俺が仔猫を見つけてしばらく後、仔猫は段ボールの中から姿を消した。誰かが拾ってくれたものと思い、俺はホッとした。だが、その数日後、その茂みの前を通りかかると、段ボールの影に、毛皮のついた残骸が散らばっているのが見えた。その毛皮はあの仔猫と同じ色柄だった。あの仔猫は、俺が知らないうちに、カラスか何かに食い散らかされていたのだと知った。


俺は顔を上げて、ココアを啜っている女を見た。
マグカップを包む小さな指は、白く細く、仔猫のように頼りない。俺が目を離したら、この女もカラスの食い物にされるだろう。

「おまえ、うちに来るか?」
「…え?」

女が仔猫のような目を上げた。

「 “うち”と言っても、この店じゃない、俺の家のことだ」
「…いいの?」

仔猫のような女の目が、再び潤み始めた。

「この店に泊まるのも、俺の家に泊まるのも、同じようなもんだろ。俺は、俺の家に泊まってもらったほうが楽だ。ベッドで眠れるから」

女は小さく鼻を鳴らしながら、目尻の涙を拭った。
俺は一人掛けソファにもたれながら、これからはもう窮屈な寝方をしなくて済むであろうことに、心底ホッとした。



ロールスクリーンを下ろした窓から、白い光が差し込み始めた。
もうすぐ朝が来る。




〈迷い猫 了〉


(次話)


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